東欧見聞録
その3
宮平順子
オーストリア貴族の避暑地オパティア
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旅も半ばを越え、4カ国の内、3カ国はクリアした。残るは、クロアチア。既に首都のザグレブは行っているので、これは楽な旅になるだろう、と、踏んだのだが、仲々どうして。。。
デュブロヴニックを出て、バスは、北方に向かった。分断された国境を再び越えて、北に行くと、大橋が見えてくる。これが、以前パオロが話していた、国境を越えずに自国南方領土に行く為の、ペリェシャック大橋である。白くて細身で、優雅な姿に、感動して、バスから写真を取ったのだが、これがまた曲者のようで。
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ペリェシャック大橋 |
国境を分断されているクロアチアと、分断してでも外港を獲得したボスニア・ヘルツェゴビナのそれぞれの思惑、橋の規模、交通量の推量(何レーンにするか)、ユーロ資金の確保、建設会社の選択、海洋資源環境の保護、など、どれもクロアチアのみで決める訳にいかず、一時は、中止かと思われたこの大橋も、現在は、一応完成させる方向で動いているのだそうだ。とはいえ、楽天的なパオロも、この橋が実際に機能するのかどうかは、モゴモゴと。
(後で調べてみると、フェリーで、という意見も実際にあった。分断の地域が、それほどの交通量もなく、大きな橋を掛けて、元が取れるのか、との疑問も呈された。どの国も採算の見込みは楽天的に考えるのが官僚のようで。尤もお役人が悲観的になって大成した国は、無いだろうから。)
毎日、パオロは、「ドップロ・ユトロ(今日は)」と皆に復唱させているので、覚えてしまったが、このドップロの部分は、八代亜紀さん並の演歌式の巻き舌が入る。ドップロのプロの部分は、思いっきり演歌調にすると、上手くいく。どこに行っても、大概日本人は、アクセントが可笑しいと笑われるのだが、このドップロについては、皆に羨ましがられた。巻き舌というのが無い国の人にとっては、難しいのだと。とはいえ日がな一日ドップロ・ユトロで済ます訳にはいかない。トータルで言えば、グループの美術館員のエレーヌの語学力は群を抜いていた。ガイドさんもビックリで、グループの一員として皆の面目も立ったのだ。
バスの目的地は、スプリット。クロアチアでは、首都のザグレブに次いで2番目に大きな都市である。その途中、トイレ休憩の土産物屋さんで休憩した。その建屋は、通常の建て方で、既に営業していて、繁盛している店だ。その店の外側敷地の一角に、鉄筋棒が立っている。これは何の為ですか?と聞いてみたら、何と、鉄筋棒があるのは、未だ建築中で完成していない(ので、完成時の税金を払わなくて済む)という「庶民の智慧」だと。そういえば、ギリシャも、屋根をつけない(ので未完成だから、税金免除)とか聞いたこともある。日本でも京都では間口税というのがあったというし、江戸の天保の改革でもこうした税を逃れるための工夫がされた、というのは、世界に共通する現象のようである。
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「建設中」の建物である証拠 |
スプリットは、ダルマチアの海岸線では最大都市である。「石の花」では、旧ユーゴ政府が、秘密裏に蓄えた金塊があり(日本のM資金のような話)、それを独軍とパルチザンが共に狙っている内にユーゴ政府の元高官が密かに船舶に乗せて、逃げようとする、その港となる舞台がスプリットである。
だが、実際には、このスプリットの整備された港のすぐ内側には、ユネスコ世界遺産登録の、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位284−305)が、引退後の住居として構築させた宮殿がある。ローマ帝国の領土が広大になりすぎて、皇帝独りでは、とても手も眼も行き届かない、ということで、東と西に分けたのがこの人で、次にどちらにも、正副帝を置く、という四頭政治にしたのもこの人だ。そして、生まれた歳を考えれば、皇帝になったのは40に届く頃だった。ローマ皇帝によらず、権力を持った人達は、出自とか経歴などを粉飾する傾向があるが、ディオクレティアヌス帝については皇帝になるまで、軍にいたこと以外は殆ど識られていないようだ。むしろ、彼の後を東で継いだコンスタンティヌス帝が、キリスト教に自身も改宗し、国家としてもキリスト教を採った為、その直前のディオクレティアヌス帝は、最後のキリスト教徒大迫害の首謀者という汚名を着せられることになってしまった。
だが、退位2年前(303AD)のこの「大迫害」については、当時の正副四帝の名前で詔勅が出ている。又「迫害」された人数の大部分は証拠不十分で立証できていないとか。当初、全ローマ帝国の最高権力の座に着いて、2年も経たずに、東と西に分け、領土の半分の皇帝の地位を自分より5歳年下のマクシミアヌスに渡してしまい、その後10年も経たない内に、正副帝の4頭体制にするなど、余り権力に拘泥しない、どちらかといえば、恬淡とした実務的な性格の人だったのでは無いか、という印象を受けたのが、この宮殿を見てからのこと。その人がどうして「迫害」を選んだのか、といえば、時代の変わり目の危機感からとでも言うことだろうか。
ここでのガイドさんは、ジェークといったが、この人、吉本興行出身みたいなノリで、のっけから、「60歳なんて、今じゃ、第二性徴期としか思えないでしょうが、」と笑わせて、「ディオクレティアヌス帝は、60になった時、サッサと引退したのです。」
元々スプリット地区で生まれた帝は、ローマ皇帝としては、東南地区(黒海の南、メソポタミア地域とエジブトを含む中東地域)を担当していたが、60歳になるや、生まれ故郷に引退所を作ったのである。
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ディオクレティアヌス帝の隠居城の見取り図
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約100m四方位(真四角に近い長方形)の大邸宅は、城址と言えるような要塞である。内部もほぼ真四角に分かれて、目的によって、各部屋が設けられている。帝の死後、数世紀というもの、城の主はおらず、地域の人民が秘かに居住を続け、18世紀になって、イギリス人の建築家が廃墟を再発見したとか。内部は、海に面した部分は、海水を取り入れるとか、暇になった元皇帝は、色々工夫したようで。ジェークは、城のあちこちを歩きながら、ある角にくると、壁の内側を指した。「皇帝は、科学者でもあったから、小便をする場合の水力の角度を正確に測って、用たし場を作ったのです。」と。
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“科学的皇帝”の指示によって作られた? |
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中央広間では歌い手さんが |
皇帝の廟の石棺の側の四角い囲いの中にはコインが埋まっている。観光客がまた来ることを願って入れるのだろうか。(私もコインを入れた。)石棺を見守るのは三鉾を持ったジュピター(最高神。ギリシャではゼウス)。元宮殿の中で、宝飾品、小間物、土産物などを売る売店も、上品な雰囲気を壊してはいない。
皇帝の要塞を出た私達の前には、恐ろしい雰囲気の銅像が。
この作者は、何日か前に行ったキャバットの廟を制作したI. メストロヴィッチである。これは、ニムの司教グレゴリーの像だという。10世紀の時代、キリスト教の教義、式典は、すべてラテン語であったため、一般民衆は殆ど理解できなかったところ、この人が、クロアチア語に訳したのだそうだ。それで、民衆は教義を良く理解でき、また、言語も整備出来たという。(ダンテの「神曲」と似ているが、こちらは、10世紀にそれをしたのだと。)
その功績は大であり、本人は、教会制度の中での出世を願い、当時ニムの司教だった彼は、926年の宗教会議に出席し、スプリットの司教の席を欲したが得られず、シサクでどうか、と言われたが断った。929年の宗教会議でも、彼は不満を述べたのだが、今度はニンの司教の職も解かれ、その後、キリスト教界から消えたという。頑固親父が臍を曲げた、みたいな話だ。(こうした人事上のイザコザは、新旧を問わず、どの組織にもあるのも事実だ。或る組織に貢献した人が常に役員になる訳ではない。)
で、この人の指の方向だが、本来は、彼を拒否した側に怒りを向けたと解釈できるのだが、この彫像製作時は、宮殿の中の一部屋に置かれたのが、外に出されて、道路の中央に置かれたので、一体どこを指しているのか、よくわからないと。(昔の絵葉書を仔細に調査すれば、明らかになるだろう、とか。)ただ、観光客用には、足に触ると幸運が訪れる、というのが流布されて、銅像の足はピカピカである。頑固親父が聞いたら、益々憤怒しそうな。
皇帝の住居の翌日、私達は、スプリットの北の港町シべニクの聖ヤコブ大聖堂(これもユネスコ世界遺産登録)に行った。ルネサンス期の教会として重要なのだそうで。近くのブラッチ島が大理石の採掘場という地の利を活かした聖堂だ。この聖堂を最初に設計し始めた時(1431年)から完成まで150年以上掛かっているが、その間に、教会の設計図が変わっていった、というのが面白い。
当初のアイデアは、普通の教会だったのが、実際の設計時に、有名人を(約100年間で3人)起用したのが運の尽き。入り口の飾りには、獅子と、アダムとイヴ(当時としてはセンセーショナルな裸体)を置き(これは今でも)、教会の内部は、奥の祭壇を中心として、三位一体を表すよう、中央がシべニクの救世主(キリスト)を頂点として、バジリカの奥の右と左の出入口はシべニク市と、シポントの聖堂を表して三角形、さらに、正面玄関の左右は、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂と、ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂にちなんでと、五角(二つの三角形)の図版で、八方美人しまくりみたいな教会を設計したそうで。そして更に、教会の外壁には、寄付をした市民や行政官の頭部を、ぐるりと置くなど、当時としては、電◯さんも顔負けの大宣伝作戦。
ところが、この頭部の彫像が頻繁に何者かに鼻を折られる、頭が引掻かれる、という事故が後を立たず。
とはいえ、大聖堂の頂上を飾る天蓋は、ルネサンス時代の傑作なのだそうだ。
この後、クルカ国立公園に行く。ここは、自然保護と環境資産保全を考えた公園で、ともすれば、人口的な建造物や文化施設などで、草臥れた私達をホッとさせてくれた。約一時間の散策も、緩やかな階段と、パオロの気のつく助けで、普段歩き慣れていないグループの人達も、どうにかクリア。
公園の南端から、北の端までは、湖を遊覧船に乗って。
着いた所から、バスに乗り、大自然の中を山に向かって走る。そこは、ダルマチアの村落地だった。山道を登っていくと、農地のような一角がある。村の人が、地元の火酒(ブランデーとはいえ、クルミとか、地方の果実で作ってある)の小さなカップを手渡してくれる。「石の花」で習ったように、「ジーベリ(万歳、乾杯)」と言ったら、ジーベリ、と返してくれた。
農家の中は、暗く、テーブルにつくと、いつもの野菜、肉、ハム、ソーセージの煮込み、スープ、パンが出てくる。頂きながら、壁に眼を移すと、壁には大きなコンテ画が。そういえば、民俗博物館が予定されていたな、と気付いた。民俗博物館とはいいながら、私達のような観光客を相手にホソボソと暮らしをたてている人々と、この人々が経験した国内紛争については、私達は殆ど識らず、その痛みを伝えるには、大変な時間が掛かるのでは無いだろうか、と思えてきた。通常の文化科学的な分類からは、民俗博物館と言えるレベルでは無いかもしれない。どれも、素人に毛がはえたような、コンテ絵で、だが、切羽詰まった絵だった。
民俗博物館は、他にもあるが、ここほど切ない博物館は無かった。
ヴァンテージでは、通常の決まったスケジュールから若干離れて、追加参加できるプランがある。これは、アメリカ人特有の、自分の活動能力の範囲を識って、充分活用するという国民性というか、他人は他人、私は私という国民が、旅のスケジュールをどう考えるのか、という点で、大いに参考になった。参加しない場合は、ホテルでの自由時間が増えるのだし、自分独りで行きたい処があれば、行けば良い(私のポストイナ鍾乳洞はこの口だ)と考えれば、実に合理的ではある。
今回は、クロアチアの3箇所で、任意があった。修学旅行で育った私は全3箇所に参加した。通常は、どの追加も、気楽な雰囲気で、楽しいものだ。(例えば、ノルウェーの犬ぞり、とか、エジプトの気球乗りとか。)だが、今回は、思いもよらぬ追加だった。本来の追加プランは、トロギールとのみ書いてある。だが実際には、途中のソリンで止まった。ここには、発掘された円形劇場があるのだと。当初地主は、地下に埋蔵された遺跡に気付かなかったのだそうで、この日も、私達のガイドさんが、見てもいいかと交渉している間、地主さんは、チラチラと私達のほうを見ていた。断ることもあるのかもしれない。2世紀に出来たこの円形劇場は、ローマのコロッセオや、ヴェローナについで三番目に大きな規模だとか。(とはいえ、建造物の部分は、殆ど残っていない。)
恐ろしかったのは、円形状の石の一部。
罪人の場合は、石に跪づかされて、首を切られ、その首が前の溝に落ちる、という処刑場。恐らくは、発掘中にそうした頭蓋骨が出たのでは、と、想像したら、寒気がした。しっかり首を抑える。
トロギールは、紀元前3世紀からギリシャ、ローマ、ヴェネツィア、フランス(ナポレオン)、と、権力の幾多の星霜を経た都市として、ユネスコ世界遺産に登録されているアドリア海の小さな島で、本土とは短い舗装道路で結ばれている。この小さな島は歴史の宝庫だ。建築様式も時代によって、ヘレニズム時代から、ロマネスク、ルネサンス、バロックと、多くの様式の建物がひしめきあっている。ヨーロッパの縮図みたいなところだ。キチンと理解するには、任意参加の2時間ではとても、と圧倒された。
ここでも恐ろしい話が。小島の中の市庁舎は、中世から裁判所ともなっていた。当然犯罪者は断罪される。現在博物館になっている建物は、以前司法庁で、この建物の正面右側には、告知用掲示板と、黒い鉄錠が打ち付けてある。ガイドさんによれば、罪が確定された場合は、この鉄錠に両手をつながれ、身を横たえることも出来ず、飲み食い一切なしで、刑期の終了を待つのだと。
但し、殆どの場合、刑期終了を待たずに死亡するのだそうで。例えば姦通罪の場合、20日の刑期だが、実際には10日前後で死亡だと。その間、同情する人が食べ物を上げたり、ということは無いのですか?と聞いたら、「それが判ったら、その場で、違反した人は殺されます」と。こうなると、一挙に首を刎ねられるのと、10日以上も苦しむのと、どちらがいいか判らないと思った。でもそれを選ぶ権利も無いのだし。今の多くの国の刑務所は、昔から言えば、上げ膳据え膳の天国みたいなものではないだろうか。
それにしても、自国の歴史の明暗ともに誰に対しても開示する姿勢は、大事だと思った。「おもてなし」だからと遠慮せず。情報開示はそれ自身が「おもてなし」ではないだろうか。
餓死のトロギールや、首切り場のある円形劇場跡を見て、背筋の寒くなった私達は、ホテルに戻り、午後は全員で、最後の大きな目玉、オパティアに向けて出発した。バスは、北に登って、スプリットに続いて大きな都市のリエカを通る。ここは、造船場地帯で、大きなクレーンの並ぶ港倉庫もある。そして、歴史的にも、この工場都市関連の鉄道会社の重役が、リエカの近郊にある風光明媚なオパティアに目をつけ、避暑地、観光地として開発し、その結果、オーストリアの皇族、貴族は、オパティアの常連となり、華やかな社交界ができたのだという。1885年には「皇女ステファニー・ホテル」がオープンし、1887年には、「ユニオンヨット・クラブ」が出来た。冬にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフI世が温暖なオパティアに数ヶ月逗留し、と、当時の華やかな有り様が記録されている。
さすが、王侯貴族が集まったところらしく、公園の手の入れようといい、浜辺の管理といい、心憎いばかりに行き届いている。
この美しい海辺に、「乙女とかもめ」という像が立っていて、オパティアのシンボルとなっている。
1891年に、オパティアの沖で嵐にあって、アーサー・ケッヘルスタト伯爵と夫人は難破した船と共に、海の藻屑となり、後には息子が残された。伯爵家では伯爵の死を悼んで、「海のマドンナ」という像が当時の彫刻家によって海の中の岩場に立てられた。だが、長年の月日で破損が激しく、1956年に「乙女とかもめ」が製作され(作者はズヴォンコ・カール)、同じ場所に置かれたのだと。前の彫像の哀悼を踏まえて、乙女は、沖を見つめている。写真を撮った時は、頭の上にもカモメが身を休ませていた。何となく、太宰治の「斜陽」の「おかあさまがスウプをあがる」場面が想いだされて。旅の最後を、オパティアという結構な避暑地で過ごし、優雅で典雅な印象で締めることが出来たのは嬉しい。
3日いた間、夕食は、各自という日があり、大通りから山の方に独りで歩いていたら、ペンション風の建物で2階以上は窓の花壇に花が咲き乱れて、1階はレストランという家があった。入ってみたら、まだ早かったので、客は一人だけが食事をしている。ここで、魚の塩焼きを頼み白ワインを飲んでいると、他国の観光客のグループが大挙して入ってきた。早く済ませてよかったと思いながら、レストランを後にした私は、翌日地元の人に聞いてみたら、このレストラン、地元では有名なレストランだったそうで。旅の拾い物で、優雅な気分に。
オパティアの背後に広がるのは、イストリア半島である。この小さな半島に、クロアチア、スロベニア、イタリアの3国の領土が入っているが、ダントツに大きく占めているのはクロアチアである。中でもプーラとロビンジは史跡として有名である。プーラの円形劇場は、前に行ったソリンの跡地とは違い、コロッセオの跡も高々とし、地下も整備されている。ここの資料をキチンと読めば、ローマ帝国で、こうした劇場がどのような政治的・経済的役割を果たしていたのか、シッカリ判る、という展示の仕方にも感動した。
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地下には資料室が |
ダルマチア海岸は、ブドウ酒の産地としても知られる農地が北にも南にもあるが、北のキルク島(リエカの南)の葡萄園でのランチは、それまでのどこよりも美味しいと思ったのは、良いワインのお陰だろうか。
明日は帰るという日のお別れランチは、ザグレブの環状線から東に外れたケゼル村の農家だった。クロアチアの集大成をしようとパオロは準備をしたのだろう。そこで迎えてくれたのは、火酒、ブランデーに、民族衣装を着た踊り子さんと音楽隊。
尤も地元の踊りといっても、踊っているのは、私達と同じ年代か少し若いオバサン(50−70代)がグループになって、スキップしたり、ステップを踏んだり、と、いうなれば田舎の盆踊りかフォークダンス。それを見ていて、あれなら私達でも、と言い出したのは、アリゾナのバーバラ。リンダと私が、負けじと、オバサン3人で、真似して踊った。農場の男性達が喜んで手拍子を打っていたから、観客が自主参加するのも珍しかったのかもしれない。ままよ、旅の恥はかき捨てだ。歌って、踊って、歩いて、と健康三拍子。
どうも、チャランポランと言いながら、シッカリ実利は得る、というのが、クロアチアの印象かなぁ、など、思って。パオロも、最初の笑顔丸出しのような印象から、旅の途中でホテルで仕事机に向かっている時に見せた厳しい真面目な表情、また、全員に気と目を配りながら、表は、各地のガイドさん達に任せグループの最後部で仕切る、というかなり高度な管理能力を発揮している。グループ旅行で頼もしいと思うのは、こうした裏方の総元締めがキチンとしていることが感じられる時である。
今回、考えてみれば、一方的に「石の花」のポストイナ鍾乳洞に始まって、リュブリアナ、サバ河、ザグレブ、サライェヴォ、ネレトバ河、デュブロヴニック、スプリット、と、「石の花巡り」のような旅となり、必ずしも旅行社の思惑とは同じではなかったかもしれないが、こうした、二段重ねの旅も、味のあるものだ、と、気付いたのも年の功か。この素晴らしい漫画を描いて下さった坂口尚さん(没1995年、享年48歳)に、感謝を込めて、合掌。(完)
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