東欧見聞録

1.旧ユーゴの優等生スロベニア

宮平順子


ブレッド湖畔の古城

9月23日の夜、NYを経って、スイスのチューリッヒについたのが9月24日の午前8時。2時間の待ち合わせで、チューリッヒから、エアバスと呼ばれ、アドリア海(あのスタジオ・ジブリの「紅の豚」の舞台)であちこちの都市に人と物を運ぶ、その名も「アドリア航空社」の小型飛行機(30名位乗り、これまた豚みたいな丸い飛行機体で笑ってしまった)で一時間、アルプスを眼下に見ながらスロヴェニアの首都、リュブリアナの飛行場に着いた。

迎えの人が居るはずの飛行場ロビー(とは名ばかり、一回り眼を巡らせば、ずべて眼に入ってしまうほど小さな待合室)で、一向に声も掛けられず、これは、もしかしたら、私の情報が入ってないのだろうか?と不安を覚えた頃、鈍重な(に見えた)身体をアタフタと運びながら、引きつった笑顔のオッサンが、ヴァンテージ旅行社です、と、既にがらんとしたロビーで独り残された私と荷物を車に載せて北に走ること40分、連れられてきたのが、最初の集合場所、スロベニアのアルプスに近いブレッド湖畔のホテル、トプリスだった。

「ドップロ・ユトロ(今日は)。アイ・アム・パウロ。」と言いながら、サッと手を出してきたのは、背が高く見栄えのいい若者だったが、何よりも笑顔が、この人、生まれた時から、笑っていたのじゃないか、と瞬間思わせるほど、心底嬉しそうな笑顔の人だった。遅れたことなどおくびにも見せず、パウロには、「じゃ、私はこれで」とドタドタと去っていったオジサンのこともあって、一層、パオロの笑顔で不安が飛んだのだった。

パオロは、キビキビと、今回、スロベニアのブレッド湖畔の旅を追加で申し込んだのは、私を入れて7名だと言い、残りの6人は夕方到着するでしょうと言った。それまで時間はたっぷり有る。私だけ自由時間が増えた、そう思ったら、凄く元気になったから現金なもの。

ヴァンテージは、アメリカの高齢層には評判の良い旅行社で10日から14日位のパッケージ・ツア−を扱っている。そのお仕着せの前後に、3,4日の追加の旅を組込む、というのがミソで、本体のツアーに、追加を入れる人々は確実にいる。(何しろ高齢者だ。皆、殆ど退職後で時間はある。)以前、エジプトの旅でも、最初にヨルダンの追加があったが、ヨルダンを追加することによって、単なるエジプト旅行より旅の奥行きも、感動も、ずっと深い旅になるとは、実証済みだ。今回も、それを期待して、スロヴェニアを追加したのだった。

ブレッド湖畔に到着して判ったのが、何故、午前中はバスで観光、午後は自由、という緩い(見方によっては、「手抜き」のような)プログラムにしたのか、である。スロベニア自体がアルプスに近く、北に接するのはオーストリアであることもあり、ブレッド湖畔は、旧ヨーロッパの王侯貴族の避暑と冬場のスポーツのリゾートとしてやんごとない人々を集めた観光地である。湖畔は、英国人の庭園師が設計したという整然とした公園となっているし、湖の中の小島へはボートで行き来できる、ロマンティックな旅となる。また近郊では、冬場のオリンピックでのスキージャンピングの開催地候補として整備されている。アルプスを背景にスキージャンピングをするのはその選手たちにとってはたまらない闘士と活力を生む場所でもあるのだろう。

 

軽井沢みたいな小奇麗な湖畔で、アルプスを遠方に見ながら、古城も訪れた。(今は、お城も結婚式場にも使われている。)スロベニアに来て感じたのは、どこも、湖とか河とかの水質が際立って良いのではないか、という点だった。アルプスから流れてくる水だからだろうか。水鳥が泳ぐ跡も、透明な水が光を反射し、底まで全部くっきり見えるのだ。

昔、私が小学校か中学校の時代、一家揃って、高尾山とか、鳩ノ巣とかにハイキングをした。その折、母は、飯盒を持っていって、お米を河の水で洗い、子供達には河原で、樹々を集めるように指示し、私達は小枝を蒐め、それで火をつけ、飯盒でご飯を炊いて食べたおにぎりが、どんなに美味しかったか、と、食べ物の記憶は、今だに深い。そんな透明な水を思い出したのだった。

 

昔ながらの煙突と、近代の太陽パネルを取り入れた家。どの家も窓には自家製の花壇が
 
ホテルには、屋内プールがあり、テルマエ・ロマエに出てくるような、ローマ式浴場のような構造物も含んでいる。昼間は誰も泳いでいない。着いた日の午後、勇んでプールに入って、仰天した。氷水じゃないの!ヘタしたら、心臓麻痺だ。慌てて上がって、スチームバスに飛び込んだ。とはいえ、翌日、もう一度意を決して、プールに行ったら、あら、不思議。昨日、あれほど冷たいと思われた水が、今日になったら、冷たいのは同じでも、身体の記憶がしっかり覚えていてくれて、それほどの冷たさとは感じられず、嬉しさに潜ったりして、久々に水の清冽さを味わったから、人間の身体は良く出来ている。(私の鈍感力は抜群だ。)

さて、今回のメーンの旅はクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロで14日(本体のみの参加者15名)。それにスロベニア4日間を追加(参加7名)して、旧ユーゴスラビアが6ケ国に分割された内のマケドニアとセルビア以外の4カ国を巡り、全18日行程である。

東欧旅行のキッカケ

実は、今回の旅の前に遡ること数年前だったか。2003年刊行の文春文庫で、ロシア語同時通訳の(故)米原万里さんのエッセイ単行本「ガセネッタ&シモネッタ」を読んだ。その中に、こういう記述があった。「芋蔓式読書」という題で、坂口尚(さかぐち・ひさし、手塚治虫氏の一番弟子といわれた漫画家)の「石の花」を読んだという。(ご興味のある方は、米原さんのエッセイ原本を読んで頂きたい。) 

「石の花」は、 第二次世界大戦下の旧ユーゴスラビアと対独レジスタンス共産党(地域によっては、パルチザンとも)を物語る漫画だ。ドイツ侵攻を機に、五種の民族、三種の宗教、四種の言語、二種の文字の入り乱れる地域(日本と比べて、その複雑な生活基板を考えただけで気が遠くなる)をハプスブルグ系の君主が無理に束ねた国家。その中で運命に翻弄される少年クリロ(パルチザンに参加)と少女フィー(収容所で強制労働)が、それぞれの生き方を問いながら、成長していく長編詩である。初版完了(全5巻)は1988年だが、その2年後のユーゴ内乱を見通したような終わり方の内容の漫画である。

あの怜悧で明晰な米原さんをして「何度読んでもわかりにくい多民族国家の内紛を描いた」と言わせた漫画である。(全く、判り難い。今でも多くの疑問・回答がネットで飛び交っているが、正確性を欠く記述も多い。書く人の立場で、いかようにも解釈される、という見本のようである。)徹底的に調査して描かれたと思われるこの劇画は、ユーゴスラヴィアでも翻訳され、坂口さんは、ユーゴ政府から表彰されたという。

米原さんは、感動の余りこの漫画を、20部購入して、各界の友人達に送りつけた。その友人達が更に感動して、更に多くの人に送りつけたのだそうで。

その送りつけられた中の一人にAさんがいたと(どうも麻生さんではないか。2005−07には外務大臣もされたし漫画好きでも有名だ。彼女は、伝聞の伝聞だが、と断りながら書いているが)。当時、旧ユーゴスラビアで内戦が激しく、そんな時、大臣のAさんに天皇陛下から、セルビア、クロアチア、ボスニアなど錯綜しているが、説明してくれぬか、と。それでAさんは、「石の花」に基いてご進講したところ、陛下は該博な知識を賞賛し、Aさんは面目を果たしたとか。

この話を読んだ私は(元来がミーハーなので、直ぐに飛びつく癖がある)、早速日本の姉に古本屋で全冊の購入を依頼したのだった。全巻読んだ私は、主人公達が14,5歳の頃、課外授業の遠足で行った(という話の中の)「ポストイナの鍾乳洞」に感動し、これは死ぬ前に絶対観ておく、と、自分に誓ったのだった。ポストイナがどこにあるのかも理解せずに。
ヴァンテージの東欧ツァーに申し込んだのも、漠然と、その憧れの一端だった。

出発前の一ヶ月という頃、今回の東欧の旅の最終詳細情報が、届いた時、私は、ネットで、改めて「ポストイナ鍾乳洞」を検索してみた。すると、何と、ポストイナは、スロベニア国内にあるではないか。宿泊のブレッド湖からは、大分離れているとは言いながら、自動車さえあれば、半日もあれば行けそうな距離だ。そこで私は、このツァーの添乗マネジャー、パオロにメールを送った。「実は、ポストイナに行きたいのです。ツァーでは、割に自由行動時間が多いようですが、私一人用に、自動車とガイドさんを別途雇ってもらえますか?」と。

パオロからは、2日後に返信が来て、「出来ますよ。料金は、自動車とガイドで費用はこれこれ、入場料は、鍾乳洞と、近くの観光の目玉の古いお城、両方なら幾ら、片方なら幾ら」と。意を強くした私は、勇んで今回の旅に出た次第。そこで最初のシーンに戻る。

軽井沢のようなブレッド湖畔周辺は、アメリカ人高齢観光客には、人気の目的地となっている。一般に、アメリカの旅行社のパックツァーの場合、今回に限らず、実に自由時間が多い、というのが私の感想である。年寄りだから、朝早いのは構わない、だが、バスに乗ったら、一時間半毎に、トイレ休憩(とコーヒーを飲み、ケーキを食べる)を入れ、午後は、ホテルでの昼寝を採り入れ、歩くのは、せいぜい30分、と、ご親切この上無い。普段車社会で、歩くのに慣れていない国民だから、ということだろうか。

逆に言えば、私のように、せかせかと、あれもこれも見たい、という日本式修学旅行に慣れた者にとっては、時間が勿体無いと感じてしまう。だから、ポストイナ参りは、そんな隙間にはぴったりだった。最初は、一人だけで行くのもな、ということで、パオロに相談して、行きたい人がいれば、一人頭のコストを安くして、大型自動車で、という案もあったが、パオロがあたったところ、鍾乳洞内で徒歩50分という点で、皆怖気づいて、ということで、誰も同行を申し出ず、当初の通リ、私一人の追加別行動となった。結果的には、これは大正解だった。

ポストイナ鍾乳洞へ

7名揃った日の一日、パオロの手配で、私の単独行動の車がホテルで待機していた。午前中のバス観光を終えて、午後1時頃、私を迎えてくれたのは、背の高いアレス。パオロと同じか、少し若いかという位。「車は、ここにあります。後ろの座席に座りますか、助手席に座りますか?」と、丁寧に聞いてくれる。私は、ガイドさんの話を聞きたいので、助手席に、と頼んで、隣に乗り込んだ。

乗り込んで、ふと左の運転席のアレスを見て、ビックリした。アレスの横顔が余りに端正だったのだ。(ホント)
昔、歴史の本の写真でみた、アレクサンダー大王の彫刻の写真だったか、ギリシャ彫刻にある、額から鼻にまっすぐつながる彫りの深い顔だった。相手は、運転しているので、こちらを見ることもないが、私は、チラチラ、横顔をみてしまう。(尤も正面から見たら、特に美形ではなかったのだが。)

そういえば、旧ユーゴは、マケドニア地方も含んでいた。あの、アレクサンダー大王は、マケドニア出身である。もしかして、アレス(という名もギリシャ的だし)も、先祖は、マケドニアの人だったのかしら、と、思ったが、聴くのは控えた。(今にして思えば、聴くべきだったかも。)アレスは、4人の子持ちで、一番上が16歳、自分が22歳の時に結婚した、と言っていたので、40前だ。私の息子よりも若い、アレクサンダー大王の末裔?は、最後まで控えめながら、しっかりアテンドしてくれた。

ポストイナ鍾乳洞は、ブレッドから一時間半ほど南に行った所にあり、世界中から観光客が集まっていた。(何故、ヴァンテージや、他のアメリカのツァーは、ここをパックに入れないのか?)そして、ビックリしたのは、そこに集まった人の中に、日本人の大集団が居たことである。それも、20歳前後の若者達が。日本語で、ガイドさんが、声を張り上げて統制していたのも鳩バスを想いださせて。彼らは、皆、ガイド・モバイルをもって、イヤフォンで説明を聴いている。恐らく日本語説明を、順番に聴くようになっているのだろう。英・伊・仏・独・露語には、そうしたモバイルは無い。それぞれの言葉毎にグループで集まり、少しずつ距離を置いて、固まって歩く仕組みだった。この若者達は、「石の花」を読んで来たのだろうか?聴いてみたかったが、時間で動く汽車の都合で、とうとう聞けなかった。残念だ。

鍾乳洞に入る前の広場には、「石の花」の時代に使われた(と思われる)短いトロッコみたいな列車が陳列してあった。今は、電動で、110人を乗せる長い列車を3時、4時、5時の一時間毎に二本送っている。つまり、最大660人が鍾乳洞に入って行く勘定だ。(夏場は、もっと回数を増やすとか。)私は3時の列車に乗り、暗い鍾乳洞の中をガタガタ揺れながら、これなら、余り迷って出られなくなる心配は無いだろう、と、一寸安心した。最大の心配は、鍾乳洞で、迷子になり、新聞種になることだったのだから。

トロッコ列車はガタゴトと暗闇を走り続け10分ほどした時、停まり、そこから50分徒歩巡りが始まった。要所毎に、説明がアナウンスされる。そこは、まさしく「石の花」の咲き誇る、冷たい花園だった。
高さは目測で20−30mほどの天井から、床から、幾億年の歳月をかけて、一滴づつ溜まって伸びていった石灰水の作った造作。通り道には、しっかり手すりがあり、濡れた小路を滑っても大事は無いようになっている。夢中で、カメラのシャッターを押し、その全容を収めようとした。だが、肉眼で見るのと写真でみるのとでは、迫力が違う。これは、実際にその場にいて始めて判ったことだ。秋芳洞とも、マンモスケーブ(ケンタッキー州)とも全く違う地層の驚異がそこにあった。

       石の花    


夢中で、大花壇を見て、最後の場所にくると、そこはオーケストラみたいな壁を背に大合唱団がある、そんな夢のような幻覚を醸す広場にでた。そして、無事、ガタゴト列車に乗り、生還したのだった。出口にはアレスが待っていて、どうでしたか?と。アレスは、仕事柄、イヤというほど何度も来ているのだろう。それでも、どうでしたかと聴いてくれるのが優しい。

ブレジャマ(岩窟)城の怪


ポストイナが無事終了し、時間も充分あったので、アレスは近くの岩窟城(観光の目玉の一つ)に走った。車で15分ほど走ったところ、地底はポストイナの地盤を共有している(鍾乳洞は、地盤としては削りやすいのではないか)。岩盤を繰り抜いた内側に堅固な城が立っている。正規の入り口は、道路から跳ね橋を渡ったところ一箇所で、この跳ね橋を上げてしまえば、どこからも城に近寄れない、難攻不落といわれた城だった。

 

    ブレジャマ城を背景に、アレスさんとのツーショット

ゴシックの、見るからに豊かな城、と思われたのは外見で、実際に中に入ってみると、右側と左側は、くっきり分かれていて、人形や、当時の家具などで、この城が日常どう使われて居たのかが判る。入って階段を上がって、3階にわかれて、それぞれ右と左に部屋が広がっている。左側は、1階、2階、3階、と、城主と、その妻子、召使、などの日常の生活場で、糸を紡いだり、子供をあやしたり、家来と会議をしたり、と、通常一般的な生活の場。

ところが、右側は、1階に、僧侶がいる。これは、まぁ、いい。2階に上がると、小部屋があって、寝乱れたベッドがあり、人形は無し。そのベッドの向うは、なにやら、スペースがあり、下から薄明かりが差し込んでいる。近寄ってみると、なんと、そのスペースは1階の小部屋から吹き抜けにして、その1階の天井の梁からは、両手を縛り上げられた裸の男がぶら下がっているではないか。それは当時の「拷問室」だったのである。城の右側に泊まる「客人」は、むしろ「人質」或いは捕らえられた敵のスパイだろうか。夜な夜な拷問室から聞こえる呻き声を聞かされてきたのか。或いは自分がベッドから引摺りだされて梁に掛けられたのか、怖い場面である。1階の僧侶は、拷問室に送られる人の最後の告白を聞き出す役割だったのではないか、という想像も怖ろしい。

とっさに、私は、ここの城主は、きっと、領民に酷く嫌われていたのではないかと思った。

後で調べてみたら、知られている城主は、15世紀の伝説的な強盗貴族(robber baron)エラゼムで(日本で言えば蜂須賀小六か?)、ハプスブルグ家とは仲が悪く(理由は、エラゼムの友人をハプスブルグの家人が侮辱したとか)、両方で殺し合いがあった(なんとも中世な)。エラゼムはオーストリアの皇帝フレデリック3世に反旗を翻しその一族のひとりを殺した。怒った皇帝はトリエステ(イタリア半島)のラヴバルを遣わし、エラゼムを捉えようとした。エラゼムは一年間、城に立てこもり、敵を退けて居たが、実は、この城にはエラゼムしか知らない秘密の抜け道が地下にあり、それを通して、近隣の村から新鮮な野菜など兵糧を得ていた。だが、その秘密はやがて敵も識るところとなり(裏切り者はどこにもいる)、こっそり、各所に秘密の小旗が取り付けられた。ある時、食事を終えて、エラゼムが最上階の厠に入っている時、合図で、敵方が厠に向けて大砲を打ち、文字通り「パンツをおろした」エラゼムは囚われた、という。彼の運命が決まったのはその時だ、と。

その後、城は1511年の地震で崩壊したが、1567年にルネサンス風な城が構築され、18世紀には貴族の避暑地となった、とある。1810年にはミカエル伯が相続し、1846年にウィンディッシュ家に売却され、第二次世界大戦後に、ユーゴ共産党政府の所有となり、現在はスロヴェニアの博物館となっている。

拷問室(Torture Chamber)などという恐ろしい場所を見た私は、若干メゲて、待っているアレスの自動車に戻った。この日は夜、グループ皆との夕食が入っている。アレスは、帰り道、家族のこと、教育制度などのことを話してくれた。妻は、教員、というのも頷ける。娘、息子達は、学校で英語を習っているが、何番目かの外国語として全く問題無く身につけている、というのが心底嬉しそうで、また、自慢したかったようだ。いい父親だろう。

夕方は暮れるのが早くなったが、食事をするレストランは、アレスが現在住んでいるラドブリーカという街にあったので、早めに仕事が終わったとアレスは喜んでいた。レストランに着いた私は、その街の佇まいを味わった。その街もしっとりと落ち着いていた。ブレッド湖畔から出発した他の皆と7時に合流した私は、「独りでイケメンを独占して」、と、オバサン達にからかわれたが、ポストイナの写真を見せると、やっぱり行けば良かった、などと言い出す人もいて、それは賑やかな食事会だった。火酒みたいなブランデーもあったし。

リュブリアナの華


スロベニア最後の日は、首都リュブリアナに行く。そこで待っていたのは、リュブリアナのガイドさんバルバラというアラサーの女性。彼女は、リュブリアナでの2012年の公務員のストにも参加したという女闘士。スラリとして、キレのいい話しぶり、他の旅行者にも絶大な人気があるらしく、あちこちで、バルバラ!と声を掛けられていた。

 

         :リュブリアナのガイドさんバルバラ

彼女の曰く、スロベニアの国歌は、他国の国歌とは違い、愛を基準にして国民の団結を促している、と誇らしげに語った。戻って、スロベニアの国歌を攫ってみたら、出てきたので、抄訳をつけたのが以下。

友よ、ワインは醸成され、酒蔵で充分時を経て
悲しい瞳と心には、ワインの甘い香りで火が灯る。
辛い悩みの時は過ぎ、絶望は希望に変わるのだ。
全国民よ、生きよ、生きよ、
輝かしい一日の為に働いた者達よ、
この世に生を受けたものには、
戦争も、諍いも既になく、
人は全て自由であり、敵でなく隣人となるように。

確かに、国家、君主を称える通常の国歌とは違う。昔、新宿にあった、歌声喫茶で謳われたといってもいいような内容ではないか。とはいえ、元来国歌は、そこの国民が勇んで歌うものだから、他国の人間が、どうこう言うものではないだろう。ただ、それであるからこそ、勇んで歌いたいと思う国歌を持つ人がどれだけいるのかは、国の安定を示す一つの基準であるようには思う。

リュブリアナには小さい運河が巡っているが、その脇には、昔のアムステルダムで有名な「飾り窓」と同じ業界の宿が残っていた。世界中、人間の考えることは同じか。広場の一角を歩いている時、広場中央に台があり、それに布が被さっている。あれは何か?と聞いたら、バルバラの曰く、昔、悪いことをした人は、あの台に載せられて、晒者にされたその土台だと。愛ばかりではなぁ。これも人民統制の一つの手段だったし。 (その2へ)


 

編集協力 株式会社 トムソンネット