東欧見聞録
その2
宮平順子
モンテネグロの古都コトル |
リュブリアナの華のガイド、バルバラと別れて、バスに乗った私達は、国境を超えてクロアチアに入った。
その朝、それまで、スロベニアにいる間は、その地の観光案内のような説明をしていたパオロは、「スロベニアは、オーストリアに近く、ドイツ侵攻の時も、ドイツ側と余り衝突も起さず、人々も勤勉、質素、真面目で、ご覧の通り国は、豊かで、優等生が多いのです。次に行くクロアチアは、そこへいくと、何しろ海の向うはイタリアだし、享楽的で、なんでも明日に延ばす、チャランポランが多いのですよ」と言った。それで、「そんなことを言って、クロアチアのガイドさんに怒られるのではないですか?」と、心配したら、パオロは、あの笑い顔で、「僕が、そのクロアチア生まれのガイドですから。」バスはドッと笑いに湧いた。さすが、パオロ。
ザグレブに入って、夕方、私達は、これから2日滞在するウェスティン・ホテルに向かった。米資本の大手ホテルチェーンである。機能的で、使い易いホテルだ。ここに今回の旅行グループの本体15人が集合しグループは22名になった。6時から開かれたツァーの説明と、自己紹介で判ったのは、なんと大学教授(とその奥さん、奥さんも教授、という組も)が8人もいた。あとは、不動産、医師(3名)、美術館員、地方行政官と、多彩。急に賑やかになった。先に来ていた私達のグループは、それでも最後まで何となく、より親密だったから、人の縁は不思議。
チャランポランと言われたクロアチアの首都ザグレブは、どうして、旧ユーゴ時代からの中央官庁の建物類が整然とならんだ、立派な都市だった。(ホテルはこの官庁街の近くである。)南側には、街を護るように流れるサバ河沿いの内側は、静かで霞ヶ関に居るような感じ。旧ユーゴ政府の建物は、どれも、三階建の、屋根は赤レンガで、壁は黄色だ。この黄色がハプスブルグ系の国王の家色なのだそうで。オペラハウスも、古代博物館も、大学も、司法官庁も、どれも、整然とし、それを繋ぐ並木道は、公園のような植栽で縁取られ、ところどころ噴水がある。
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ザグレブの官庁街
とはいえ、市の中心地は、官庁街からすこし離れた賑やかな(上野みたいな)下町で、都電みたいな電車も走っている。中央に小高い丘があり、丘とその周辺が中心部。ちょうど、フェアをやっていて、パリの朝市みたいなマーケット(そこのテントは全てショッキング・ピンク)が並んでいる。丘の上には大聖堂。マーケットの傍には、新鮮な魚が一杯ならんでいる魚市場。テントの一つでは、イタリアの歌手が、カンツォーネを歌っている。一緒に手拍子を打ちながら、無料の余興を楽しんだ。なんだかニューヨークに戻ったみたいな雰囲気だ。騎馬兵のパレードも華麗な過去を想わせて。
賑わうマーケット
ガイドさんについて、丘から降りていく間に、小さな博物館があるのに気づいた。その名も「Museum of Broken Relationships (壊れた関係の博物館)」これは、外交関係が上手く行かなかった、ユーゴの歴史を展示しているのか、と思い、ガイドさんと別れた後、私は、独りで、その博物館に入ってみた。なんと、それは、男女の「壊れた関係」の名残品の博物館だったのである。
例えば、銀色の夜会服が展示され、その説明を読むと、
「毎年、結婚記念日は、夫と食事をするのが楽しみだった。その年も、私は、夫を喜ばせようと、新しい夜会服を用意して、着るのを楽しみにしていた。ところが、その日、私がその夜会服を着ようとした時、夫は、実は他に好きな女性が出来た、別れてくれないか、と言った。そして、彼は家を出ていった。私は、夜会服を切り裂きたい気持ちで一杯になって、泣き明かした。でも、美しい夜会服を見ている内に、この博物館に寄贈しようと思ったのです。ここなら、この服も、見てもらえるし、私も前向きに生きていけるだろうと。」
また、ヌイグルミのワンちゃんの耳が破れている展示品には、「アイツは、また乱暴にワンちゃんを虐めたので、私は、ひっぱたいてやったのよ。もう、二度と会いたくない。」
と、まぁ、色々あったが、一部屋みただけで、もう充分、という気になった。こんな博物館もあるのが不思議。内に秘めるのと、外に出すのと、どちらが楽か、と考え、宮尾登美子さんの描く日本の市井の人々は、ここには住めないだろう、などと、勝手に思ったのだった。
ザブレブで、脳天気なカンツォーネを聞いて、平和ボケした私には、翌日国境を超えて入ったボスニア・ヘルツェゴビナは、これまたビックリするほどの終戦直後の社会に見えた。バスの右も左も破壊された建物、村の集落、鉄骨の残骸が残る国で、一挙に、これが旧ユーゴなのだ、と、「石の花」を思い出した。
: 戦争の傷跡)その首都サライェヴォで夕方到着したのは、その名も、ホテル・ヨーロッパ。
(「ミンボーの女」でヤクザに悩まされるホテルと同じ名だ。)
このホテルは、時代が時代なら、きっと、私達などは泊まれないほど豪華なホテルだったのだろう。部屋は、20畳敷くらいあって、大きなベッドが、ドーンと置いてある。天井は、1.5階分位の高さだ。バスルームに行ったら、ここはモダンで、シャワーとバスタブがついているが、今度はモダンすぎて、使い方が判らない。シャワーの取っ手をひねったら、いきなり水が私目掛けて飛び出した。あわてて停めて、もうシャワーには入らないことにした。自分が凄く田舎者になった気がする。
一休みして、6時近くに集合し、ツァーのガイドさんに合う。こんどのガイドさんは、これまた、元共産党員(というか、今も、というか)、ゴーリキーの「どん底」とか、ゴッホの「馬鈴薯を喰う人々」とか、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコルニコフとかの言葉が一瞬頭に浮かんでくるような佇まいのひとだった。
このガイドさん、ジャード・ユーフヴォヴィッチさんといって、戦後を独りで担っている、みたいな雰囲気の痩せた人で、歯はボロボロ、髪はバサバサ、服はヨレヨレ。だが頭脳明晰で一見鋭い目に黒縁のメガネで、チトー・ユーゴ共産党の残党200人の一人、旧ユーゴ国家を護っている、と自己紹介した。皆、口を開けて唖然。この人は、1984年のサライェボ冬季オリンピックの時の観光部長だったのだそうで、確かにその当時はまだ若く(ユーゴの国だったし)、それなりの地位にいたと思われる写真の載ったパンフレットを配ってくれた。
最初に連れて行かれたのは、セルビア・ギリシャ正教会の前にある碑だった。
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自称共産党員のガイドさんの後ろが碑
フランチェスコ・ペリリ作モニュメントで、多文化主義を訴えているとのこと。同じような碑が、トロント、中国、南アフリカ、シドニーに設置されているという。確かに、多文化主義を取らなければ、旧ユーゴも、今の6カ国も行き詰るだろう。国の成り立ちから、複数国家の人々を包含してきたアメリカ人にとっては、不思議は無いかもしれない。(この国ではユーゴ内戦に介入したビル・クリントン氏は、人気が高い、とガイド氏。)ところで、この碑を製作したペリリ氏についてだが、イタリアのアーティストのようで、1949生まれ。イタリア語のウィキペディアのみで日英の情報は無い。碑は各国にあるのに不思議だ。
このガイド氏、あっちの小路、こっちの小道、と、黄色のカードをガイドの旗代わりにして(黄色といえば、ユダヤの人にとっては、ダビデの星、ドイツ侵攻で、ユダヤ人が服につけることを強要されたのが、この黄色のダビデの星だ)皆は、それの後に続く。サライェヴォのあちこち(といってもどこをどう回ったのか、全く判らない)で、黄色の紙を掲げて、「◯◯年、ここで、xx人が虐殺された。」と、コソボ内戦での殺戮の記録を滔々と述べる。そこには壁や、道路に、銃弾や手榴弾の後が生々しくあった。手榴弾はレシンで赤い液体を残すので、「サライェボのバラ」と呼ばれている、とも。
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: サライェボのバラ
その「バラ」は、後世の人々に内乱の恐ろしさと、二度と繰り返すまい、との戒めだと。だが、実際に、バラのある場所で、どちらの側がどの「人民」を襲ったのかは、よく判らなかった。「悪辣なセルビア人」が襲ったのだとして、今はセルビアからも観光客が来ているのではないだろうか。過去の事実は情報開示をすべきだとしても、現在住んでいる旧セルビア人を批判できるのは、サライェボの人々で、他国の観光客ではない。複雑な地域はあくまで複雑だ。
ところで、このガイドさん、なにか説明する毎に、「何か、質問は?」というのが癖で、それが、私には「なんか、文句あっか?」と聞こえてしまって。。。皆、黙って従っていたし。
殺戮の跡ばかり見せられて、私達は、疲れてしまった。だが、夕食についたのは、菩提樹の木陰のレストラン、飲み食いしたら、皆元気になった。ホテルまで、この「(元?共産党員」が、夜のイスラム街(ホテルの周辺)を案内してくれた。夜空の星が綺麗だった。
夜のサラィエボ
サライェボは、住民の60%がイスラム教なのだそうで、ネッカチーフで頭を包んだ女性が行き交っている。また、ギリシャ正教会の裏に回教のモスクがあったり、その逆だったり。モスクの隣がユダヤのシナゴーグだったり。お互い遠慮しているのか、ムアッジン(回教の一日5回のお祈りを唱える人)の声は一度も聞かなかった。(トルコのイスタンブールでは、毎回良く聞こえたのだが。)そういえば教会の鐘も。。モスクの近くには、石造りの水飲み場があって、猫が水を飲んでいた。
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: 猫は自由に水を飲める
翌日は、ユネスコ認定のモスタルに行く。「共産党員」は、今日も「プチブル」の私達に教えを垂れよう、と、バスに乗ってきた。とはいえ、確かに観光部長だっただけのことはある。あれこれ良く識っていて、勿体無いような人だ。世が世なら、立派な教育者になったかもしれない、と。ガイドさんは、皆パオロが選択した人々だ。パオロの才覚は仲々のもの。
モスタルは、16世紀にオットマン大帝が、ネレトバ河に掛けた古い大橋で識られる古都で、バルカン半島にあるイスラム文化の代表としてユネスコ世界遺産認定を受けたことで知られた街である。(それ以前は、ローマ帝国の侵入の跡もあると言われる。)だがそれよりもオスマン・トルコ時代の司法官が居たところとして識られており、橋(現在は復元のみ)自体がイスラム文化の代表として認められたものらしい。今回の旅で、何箇所かユネスコ世界遺産認定、という都市や、建造物などがあったが、正直、何故、ユネスコが、これらを世界遺産としたのかは、イマイチ判らなかった。(説明を聴くと、ならば、日本は、ユネスコ認定ばかりになるのでは?という疑問が湧いてきて。。実際には、日本には17の世界遺産があるが、大手はヨーロッパ諸国である。)復旧の為のお金蒐めと、旧世代の残した遺産で食いつなぐ(ベニスや、アテネのように)ことを目的としているのだろうか、と。この辺りも、よく判らない。(そういえば、イタリアもギリシャもEU圏では、劣等生扱いだ。)
ただ一つ、モスタルに行って良かったのは、「石の花」の(チトー)パルチザンが、ドイツ軍の裏をかき、破壊された橋の橋桁の木材を使って、小橋として繋げて隊員を向こう岸に渡し、ドイツ軍は、橋を破壊したので安心していたところを突かれる、という場面に出てくるネレトバ河の破壊橋が(本物かどうかは不明ではあるが)そのまま、残ったような残骸が印象に残った。具体的な物なら、撮影出来る。
ネレトバ河の壊れ橋
高尚な次元の話は、教授連に任そう。と若干投げやりになってしまって。
モスタルで、共産党員のガイドさんと別れ、プチブルのみとなった私達は、クロアチアに戻り、デュブロヴニックの大城址に向かった。ガイドさん用のチップをさし上げた時だけ、党員は、ニッコリした。よかった、振払わられるかと、恐る恐るだったのだ。
今回4カ国の間の国境を何度か通った。元々が同じ国だから、余り問題は無いとはいえ、毎日国境を超えて仕事をするとなったら、その苦労は、大変だろう。特に、クロアチアはアドリア海沿岸に沿って細く長く伸び、ずっと南のデュブロヴニクまで60kmという地点にあるネウムという港町は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領で、ここで、クロアチア国は一部、分断されている。陸路では二度も国境を越えなければ、南のクロアチア領には行けないという無理な国境線となっている。(逆に言えば、ボスニア側としては国境を接するクロアチア、モンテネグロ、セルビア以外の国に対しては、このネウムのみに防衛を集中できる、という利点はあるとは言えるが。)
パオロに、何故海上に浮かぶ小島にフェリー港を作り、クロアチア領から、無料のフェリーを両側に出して、他国経由でなくとも、通行輸送出来るようにしないのか、と、聞いてみた。(例えばニューヨーク市マンハッタン島の南からは、スターテン島を結ぶフェリーが無料で、頻繁に往復している。それでスターテン島の人々はマンハッタンに毎日仕事に来られる。)パオロは、クロアチアは、南側領土の地続きにある北方に伸びた半島の突端と、北側領土の南端とを結ぶ大橋を建造する為に、ユーロ基金を申請しているのだ、と、答えた。もし、それまでにフェリーで、不便を改善したら基金が貰え無くなる、ということなのだろうか。フェリーであれば、船さえあれば、直ぐにでも開通でき、航路の変更は簡単だし、便利になるだろうに、など余計なことを考えてしまった。(どの国も役人・官僚の考えは、普通の国民への奉仕以上をお考えのようで。)
アドリア海沿岸に着いた私達は、北の共産圏から、陽光に満ちた南国に脱出して来たような、開放された気分を味わった。(ゲルマン民族の大移動も、北東の諸民族が、オレンジとオリーブを求めて、と昔習った記憶がある。)それほど背景は違ったのだ。ホテルに着いたのは夕方だったが、アドリア海の夕陽は、それは美しく見えた。ホテルの名前からして、パラス。上等!
翌日は、これまたユネスコ世界遺産指定のデュブロヴニク旧城址巡り。写真でみると佇まいが、ギリシャのロードス島に似た雰囲気で、ずっと気になっていたところである。港の城址は当然、海を渡ってくる敵を想定しているので、偉容を示して、襲撃を諦めてもらう、という目的もあったのだろうから、海から眺めて堅固であるように見せる技術が発達したのではないだろうか。また、キリスト教国家勢に迫ってくるイスラム勢を撃退する、という役割もあっただろうが、イスラムについては、海上では、むしろ南のギリシャが前衛になっているから、背後の山からを注意すべきであったろう。城塞の中からは、あちこちに急な階段が山側に伸びているのが見え、試しに登ってみたら、高所からは、海側は無論のこと,陸側が良く見えるように出来ているのも、そうした備えだろう。城壁の内側は、多くのレストラン、バー、カフェ、土産物屋が繁盛しているのもロードスと同じ。ここの中央広場の教会で、室内楽の演奏があって、ひと時の上等な時間を味わえたのが、嬉しかった。
広場ではジャズ・バーが
ここのガイドさんは、共産党員とは真逆の、聖歌隊員みたいなお坊ちゃまタイプ。 色々ある。
翌日は、バスで、デュブロヴニクのリビエラと言われている海岸沿いの小奇麗な街、チャヴタと、農村に行く。アドリア海を見下ろす丘に上がると、そこには、美しい廟のある墓地があった。廟の製作者は、I. メストロヴィッチという人で、ニューヨークのメトロポリタン美術館でも、個展が開かれたのだという。確かに、墓地から眺める海は美しかったが、私達の年齢を考えて、そろそろご準備を、ということだろうか、と深読みしてはいけない。因みに、1基につき年間の維持費で幾ら支払うのか聞いたら、なんと、千円の単位だったので、驚いた。月額としても、本当に? 日本での「葬式仏教のお布施」の話を聞いているので、ビックリだった。戒名など無いのだし。
この日は、近くのクロマチャ村の民家で、家庭料理を味わい文化交流をする、というので夕方ホテルからバスに乗ったのだが、その村は、かなりの田舎にあって、大型バスが通るには困難な道だ。私達の一人は、行く途中で癇癪を起こし、「地元交流なんてどうでもいいから、ホテルに帰ってマクドナルド食って寝たいよ!」とゴネだした。本心は、皆似たようなものだろう。ヴァンテージの旅では、いつも「地元交流」を付けてくるが、正直、なにが文化交流か、というほどの内容。地元の人が住んでいる家をみて、作って下さる「地元料理」の食事をしても、ホスト・ホステスが皆が英語が達者という訳でもなく、子供の自慢や、日々の話、自慢か不満をトロトロ語るのがせいぜいである。外国からくる観光客を相手に、どれほどの話題があるのか、いつも不思議に思っていた。今回も、今はニューヨークに住んでいるクロマチャ出身の人が帰省し、その姪のケイティさんが住んでいるという家で、無事、マクドナルドではない食事にはありつけ、地元のワイン、自家製のソーセージ、ハム、煮込みなどのご馳走に預かったが、ニューヨークに住んでいる伯父さんが主に話をしたので、地域交流といっても、ニューヨークに行く前の村の事情を聞いたような不思議な「文化交流」だった。むしろ、一緒のテーブルに座ったバスの運転手さん、毎日、文句も言わず、大型バスを恙無く運転してくれる若者には、一杯食べてもらおうと、私は、料理の皿を回して話も出来た。この方がよほど文化交流が出来る。
デュブロヴニクには4泊した。ひっきりなしに荷物を開いて畳んで、という作業を繰り返している時、4日も同じホテルというのは、何だか非常に贅沢をしている気になるものだ。その内一日は、国境を越えて、モンテネグロに日帰り入国。ここは、セルビアから2006年に分離して独立国となった。この国では、ギリシャ聖教徒が70%、イスラム教徒が25%だという。コネチカット州位の面積だと。人口は70万以下。(コネチカットの人口は350万位)
今回の旅では、4カ国共通して、金融関連で一番実力を示したのはユーロである。モンテネグロなどは、2002年にユーロになる前は独マルクで、自国通貨を持ったことがないのだと。
(それでも独立国になったのだから、これからも世界の国家の数は増えこそすれ、減りはしないだろう、と、秘かに思った。)
スロベニアは名実共にユーロ圏の一員である。クロアチアは、現在は、クーナという貨幣を使っている。パオロは、クーナという正式貨幣を使うように、と、幾度も言ったが、実際にレストラン、土産物屋、その他で、幅を利かせているのは、ユーロだった。無理もない。ここ2,3年の内には、クロアチアもユーロ金融圏に入ろうと申請しているので、自国貨幣に執着しろという方が無理というものだろう。数年経ったら使えなくなる(かもしれない)貨幣を誰が後生大事に積むものか。どこでも、クーナで幾ら、と言いながら、ユーロなら幾ら、と、言うのも、ユーロ参加に備えて置きたい、と、これは本音だろう。それで、パオロが幾ら国家の政策を説いても、皆、ユーロを集めているのが実情だ。(ローカルのガイドさんも、そりゃそうでしょう、と言っていた。)ボスニア・ヘルツェゴビナは、KM(変換マルク)だとはいうが、買い物は、すべてユーロでOK.
改めて感じたのは、ドルの凋落である。一昔前までは、欧州どこでも米ドルで買い物が出来た。今回も、スロベニアでの単独行動に備えてある程度のユーロは用意したが、あとは、クレジットカードと米ドルでいいだろうと、単純に思っていたのが、米ドルは、ほぼアウト。ショックだった。クレジット・カードも、アメックスは大きな店かホテル以外はアウト。ヴィザの出番だった。あとはATMを利用。.(予備に日本円を持って行ったのだが、これも出番無し。)
モンテネグロは、国というより、地域郡といったほうが良いような、静かな地域だが、緑が豊かで、人々はゆったりしているとか。(ゆったりというのは好意的表現で、ハッキリいえば、もったり、のったりで怠惰なのだ、というガイドさんもいた。そんな、怠惰な人々がどうやって独立したのだろう?)ここにも、ユネスコ世界遺産に登録されたコトルの町がある。かなり内陸に入り込んだコトル湾に沿って、12世紀にできた都市で、都市全体をユネスコ世界遺産に登録としているのも、中世都市がそのまま残っているという珍しい町だからだろう。城壁に囲まれたこの都市は、当時のヴェネツィア(ヴェニス)共和国が構築したのだそうで、町自体がヴェニスの大運河を模しているように見える。(ヴェニスのように、町の中を運河が流れる訳ではないが。)運河に面した町並みもヴェニスの回廊に似ているが、町の中心部は、平担で、その後ろの山岳地帯を含めて城壁が回らされているのも、いざ戦となれば、町に住んでいる人々が皆兵となって、城を護ることが暗黙に理解されていたのだろう。
ここのガイドさんのミロ氏は、ギリシャ生まれの海男、「時間があれば、私の船に皆を招待したいのだが」と、得意げな人。(ギリシャのお金持ちは、オナシスさんでなくても、ヨットの一隻や二隻。。)ミロさんは、私達のグループの教授の一人に、町の中央、大寺院前の広場、教会から出たところすぐの左側の石柱の前に立つように、と指示。言われた教授が立つや、ミロさんは、「中世では、悪いことをした人々は、ここに鎖で繋がれ、人々の嘲り、投石、打擲に晒されたのです。」と。苦笑いする教授。そういえば、リュブリアナにも、晒台はあったな、と、思い出した。娯楽の少ない時代、見せしめは、大衆の恰好の見世物だったのだろう。
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見せしめになる教授
罪人の見せしめで、現実に戻った私達は、だが、このコトルには、いたく惹かれた。城壁の外側は海浜エリアで、ヨーロッパ中から富裕な観光客が、アドリア海・地中海の穴場に集まっている。独立国としては観光資源が豊かであることは、大きなプラスだろう。
コトルを出て、バスは、更に南下し、ブドヴァの町から更に行くこと約7キロ。アドリア海に浮かぶ小島が「紅の豚」を思い出させる。このステヴィ・ステファンの小島は、陸とは人口の海中道路で結ばれ、ガイドさんによれば、昔は只の島だったが、今では世界で尤も安全警備が徹底している観光地として100軒近くのホテルを容しているとか。だが、2006年の独立については、日本は承認したものの、セルビアの日本大使館がモンテネグロも兼任のような状態で(本家が分家の面倒を見るということか?)、日本の観光客は、ブドヴァ停まりのようである。ステヴィ・ステファンまで足を延ばせたのは、アメリカのツァーだからというのも、勿体無いような話で。
ステヴィ・ステファン島
帰りは、小島のフェリーで、道路の距離を縮め、クロアチア領土にもどった。(その3へ)
その1 その2 その3
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