聖写本を巡る「犯人は誰だ?」

NYタイムス 2012年7月25日付け   記者:ローネン・バーグマン

以下は、今年7月25日付けのNYタイムス紙に載った記事の翻訳です。 記者は、イスラエルの
ジャーナリストであり、彼の記事をその儘出来るだけ正確に翻訳しようと務めましたが、もし、
翻訳に誤り・疑義がある場合は、翻訳者に、ご連絡頂ければ幸甚です。翻訳者:宮平順子

現存するCODEX

アレッポ写本

この春、その場所の正確な情報も、蔵書を護る為の極めて厳格なセキュリティ・システムの実態についても、明かさないという条件で、私は、イスラエル博物館のとある秘密の小部屋に招じ入れられ、アレッポ・コデックス(写本)と対面した。アレッポ写本―最も古く、完全で、最も正確なヘブライ聖書の写本。その写本がどのようにして此処エルサレムに来たのか、それは古代からの畏れと現代の偏見、イスラエル社会のナマの神経を逆なでする話であり、同時にアラブ諸国に住んでいたユダヤ人と、ヨーロッパに住み着いたユダヤ人(アシュケナージと言われた)―そして、このアシュケナージ系のユダヤ人が、現在のイスラエル国家の基盤を作ったのだが―との間の文化の争いでもあった。しかも、現在に至るまで、世界中の聖書研究者、私立探偵、後暗い商社マン、モサッド(イスラエル諜報機関)に取ってもユダヤの歴史で最大のミステリーの一つになっているのである。

私達少人数がアレッポ写本を蔵している小部屋に入るなり、博物館の書類保存研究室長マイケル・マッゲン氏は、手袋を嵌めて、注意深く、三箇所に美しい装飾文字のあるまだ綴られていない頁を取り上げて、我々に見せた。それらの頁は何かの動物の皮で出来ており、引き伸ばされて、漂白され、写本の頁となり、筆者の墨は樹木の脂に鉄硫酸と煤を混ぜたもので出来ていた。「この写本がかくも長い間、こんな状態で置かれていたことを考えれば、」と、ジェームス・スナイダー博物館長は言った、「これは驚くほどよく保存されていたと言わねばなりません。」スナイダー氏は、博物館が2000年経った「死海文書」と並べて、この写本を置くことが出来ること、そしてその骨の折れる修復作業については喜んで語った。だが、こと話が、写本の紛失した部分がどこにあるのか―写本の40%にも当たるのだが―その失われた部分の価値がどれほどのもので、どうして紛失されたのか、といったデリケートな質問には、推測すら語らなかった。

多くの人が写本の紛失した部分を見つけよう、或いは盗ったのは誰かを探そう、また、誰の歴史が、写本の話と交わっているのか、というのを語るのは、この写本が千年を越える時間を越えて、どのように力を及ぼしてきたのか、という事実を垣間みることでもある。シリアのアレッポで、写本は、600年以上に亘って安全に護られてきた間、写本は不思議な魔力を持っていると信じられて来た。例えば、これを見た女は子を宿し、これを護る者は恩寵を与えられ、盗んだり、売り飛ばしたりした者には呪いが掛かり、聖なるシナゴーグから外に出た時には、ユダヤ人社会全体に疫病が襲い掛かる、と。最初の頁には、アレッポの長によって、「ヤーヴェのお告げにより、売買も取引も禁ず」とされ、また、別の処には「この写本を盗むものに災いあれ。この写本を売買する者に災いあれ」と書かれていた。ある人々の間では、これらの呪いは、今でも実在する。

「死海文書」が書かれて後、千年もの間ユダヤ教の聖典―トーラー5巻(モーゼ5書)とその他19巻を含む―は、筆写され、様々なユダヤ社会に代々伝えられてきた。ユダヤ教の教えによれば、これらは、最初神から直接手渡されたもので、生命の存在と直接関わる印、伝文、暗号などを含んでいたという。写本が増え、教本の写し間違いが、教義自体の変更となり、難解な教義知識体系自体が失われてしまうという恐れから、一つの教義正本を創る必要が出てきた。

また、秘義的思想を超えてローマ帝国軍によるエルサレム第二神殿の破壊(ユダヤ戦争70年AD)後のユダヤ人社会を統一するにも、一つの教義正本は必要であった。現在「死海文書」と「コデックス」の一部が展示されている「書物の殿堂」の館長であるアドルフ・ロィトマンはこう言った。「死海文書とコデックスの間にある千年の隔たりは、写本の標準化が行われた千年紀と看做すことが出来よう。ユダヤ人がユダヤ国家を創りあげたと同じように。一つの写本、一つの民、仮えそれが、地上の四方に散らばってしまったとしても。」

 アレッポ写本の足取り
 1.アレッポ・コデックスティベリアスで930年に完成。
 2.エルサレムの届けられるも、1099年に市は破壊され、十字軍に持ち去られる。
 3.カイロ近郊のフスタートで買い戻される。
 4.14世紀にシリアのアレッポに移動。600年経つ。
 5.1957年、トルコ経由でハイファに。エルサレムに戻る。
 図はウィキペディアの注29から掲載(項目不明)


伝えによれば、6世紀の初め、ガリラヤ海西岸のティベリアスに住む賢人として識られたベン・アシャー家の人々が教義正本版作成に手を染めた。冊子版技術は―この方法であれば、一枚の皮紙の裏と表両面に筆写出来るため、巻物より安上がりだ―既にローマ地区では使われていたのだった。そのお陰で930年ADにはティベリアスの賢人達により、聖典24巻すべてが集められ冊子版に集大成され、最初の正本Tanakh (ヘブライ聖典、旧約聖書)が完結された。この冊子(コデックス)はティベリアスからエルサレムに移された。だが、1099年、十字軍はエルサレムを破壊し、瓦礫の山とし、住民(ユダヤ人)を殺戮し、コデックスを持ち去った。カイロ近郊のフスタートの裕福なユダヤ人社会は、それを買い戻す為に巨額の富を支払った。その後、12世紀に入り、コデックスはマイモニデス(訳注:哲人・医師)の元に置かれ、最も明瞭な聖典とされ彼の大著のミシュネ・トラー(ユダヤ律法)や、その他(信仰の13条)の基盤となった。14世紀には、マイモニデスの孫の孫の代となり、アレッポ(シリア)に移り、コデックスも一緒に移動した。そこで、コデックスは、その後の600年間、アレッポ大集会所の地下の岩盤を刳り貫いた秘密の場所に収められ、安全に保管されたのである。

アレッポ写本とイスラエル建国

次に起こった経緯―このコーデックスがどうやってイスラエルに行き、紛失した頁はどこに行ったのか―については、曖昧で、矛盾だらけの話が、多くの手前勝手で信頼できない人々によって語られてきた。この5月に出版された本「アレッポ・コデックス、古代聖典にまつわる妄想と憑依、信仰と追跡の真実」で、カナダ系ユダヤ人のジャーナリスト、マッティ・フリードマンは、説得力のある詳細な調査結果を表した。ここに書くきっかけとなった報告書である。

1948年のイスラエル国家設立以前から、ユダヤのリーダーは地域の伝統文化遺産を発見し蒐めることに熱心であった。彼らは考古学に関心を持ち、ユダヤ教・民俗の重要文化財を、パレスティナに持ち込むことに夢中になっていた。アレッポ・コデックスは、彼らに取っても特に最重要にランクされていたのだが、それを持ち込む試みはいつも頓挫した。そのことが、多くのアレッポ出身のユダヤ人にとっては、この写本を巡る神話を更に裏付けるものと思われた。この頓挫した努力のトップにいたのは、シオニスト運動のリーダー、イツザック・ベン・ズヴィ、著名な政治家、学者としても知られ、アラブ地区のユダヤ人社会に特に力を入れていた人である。(また、パレスチナ地方の武装ユダヤ軍の最初のメンバーでもあり、シオニズム運動に反対する超正統派要人の暗殺にも関係していた。)

1935年、ベン・ズヴィは、アレッポに行き、ユダヤ教社会の長老達と合ったが、長老達は、コデックスの入っているケースを見せただけであった。その冊子写本は、本来エルサレムに置くべきであると説得しようとしたのだが、彼の懇請は、自分達が護ってきたものを奪おうとする外部の者の不正な詐術と思われてしまった。8年後、第二次世界大戦の真っ最中、ベン・ズヴィと他の学者達は、戦時下のアラブ世界にあるコデックスの危険を訴え、再びアレッポ社会に働きかけた。1943年には、コデックスを難局から救出する為に、ヘブライ大学の講師で、アレッポ出身のイツザック・シャモシュを派遣した。シャモシュは生命の危険を犯しながらもシリア国境を越えたのだが、アレッポに着くや、彼もアレッポの長老達に拒否されてしまった。だが、アレッポの若手達は、コデックスが危機に晒されているというベン・ズヴィの懸念を理解し、長老達から盗み出すことを手伝うとまで言ってくれた。

この春、私は、シャモシュの弟、アムノンと話をした。彼は、シャモシュがエルサレムに戻った直後に会ったと言った。「兄は写本を巡る呪いを知っていました。」とアムノンは言った。
「この写本を盗むものに災いあれ。この写本を売買する者に災いあれ。この写本を移そうとする集団アラム・ツォーバ(ヘブライ語で、アレッポのこと)に呪いあれ。それが兄の良心にあったと思います。ベン・ズヴィや、大学の長老達は、それを知りながら兄に押し付けて、アレッポ社会を破滅させようとした。兄にはそれが出来なかったのです。」
シャモシュが戻りベン・ズヴィにコデックス奪取の失敗を報告すると、ベン・ズヴィは言った。「正直者を送ったのが愚かだった。」
アムノンは言った。「兄が会談から戻った時、そのげっそりした顔で判りました。」
ベン・ズヴィの恐れは的中した。
1947年11月30日、国連総会でユダヤ国家建設決議案(訳注:国連総会決議181号パレスチナ分割)が採択された翌朝、アレッポのユダヤ人街を暴徒が襲い、ユダヤ人を攻撃し商店を叩き壊し、集会所に火を付けたのである。アレッポ出身で現在は、ベン・ズヴィ研究所(1948年に設立され、イスラム、アラブ下にあるユダヤ社会を研究する目的をもっている)の所長をしているヨム・トヴ・アシスは、当時5歳であった。「暴徒がラビ(教師)を蹴りつけ、ユダヤ人倶楽部に火を付けていました。」と語る。「デモ、叫び、暴動は、何日も続きました。」

アレッポの集会所


コデックスが焼滅したという噂は、直ぐに地球を駆け巡った。アレッポの長老達は、写本の写真を取ることを禁じていた為、図りしれない価値のある情報が全て永遠に失われてしまったと思われた。エルサレムでは、イツザック・シャモシュは、呪い怖さの為に取り戻さずに終わってしまったと我が身を責め、悲嘆に暮れていた。

暴徒の乱が始まって、2,3日経った頃、コミュニティの長老達少数は、コデックス焼滅の噂は、どうも本当ではないらしいと気がついた。どうやって救われたのかについては10以上の説があるが、どうも本当の立役者は、シナゴーグの掃除夫アシャー・バグダディとその息子で、シナゴーグに戻り、散らばった頁を拾い集めたらしい。

シリア政府がコデックスに興味を持ったのは、アメリカの骨董商が、コデックスに20億円($20M)出すと言った時からだ。そこで、アレッポのシナゴーグの長老達は、シリア政府に対してはコデックスは焼滅したと言い続けた。10年の間、コデックスは焼滅しなかったと判った後も、長老達は、秘密の場所に保存し続け、アレッポの外に出すことを拒否したのである。

1952年、イツザック・ベン・ズヴィは、イスラエルの第2代大統領に就任した。その直後、彼は、イスラエルのユダヤ教律法学者から、コデックスの呪縛は開放されたという教義を手に入れ、アレッポのユダヤ人に、エルサレムに送るように圧力をかけ始めた。その頃には、多くのアレッポのユダヤ人は、ニューヨークに移住しており、富豪になった者もいた。ベン・ズヴィは、彼らに訴えかけ、シリアに留まっている長老達を説き伏せ、アメリカ・ユダヤ人財団委員会(アレッポに留まったユダヤ社会に財政的援助をする必要があった)に、コデックスをイスラエルに渡さなければ、財政援助は打ち切ると言わせた。

1957年、二人のアレッポの律法学者は、ユダヤ教社会が破滅に瀕しているのを恐れ、この機会を捉えて、今はイスラエルに移り住む、アレッポ出身のユダヤ人にコデックスを密かに渡そうと画策した。アレッポ出身の商人ムラド・ファハムが、シリアから追放令を受けたのだが、この男にその役目を依頼した。「私がシリアを離れる時、」と後にファハムは回想した。(彼は1982年に死亡。)「ラビのモシェ・タウィルが私にこう言いました。お前に言っておくことがある。お前の身に悪いことが起きるかもしれない。何故かといえば、これをして囚われたら、縛り首になるのだから。」ファラム氏は、この後、事ある毎に、自分の勇気を吹聴するのだが、その時、こう言ったという。「神のご加護があれば、私はやります。私の命はご心配いりません。もし創造主が私にその役を下されるなら、創造主は私を通して私の為に、奇跡を行われるのでしょうから。」と。

コデックスをファハムの自宅に届ける役目の男は貴重な荷物の入った袋を運んできた。後日の調査報告によれば、ファハムの妻は「袋の中身の重要性を知っており、危険も承知で、袋を開きもせず、チーズ・クロスで包んで(家族の商売はチーズ製造だった)洗濯機の中に隠した。」

ベン・ズヴィ研究所の公式の説明では、アレッポのラビ頭は、ファハムを雇い、ベン・ズヴィ大統領に届け、その後、研究所に届けることとなっていたという。だが、マッティ・フリードマンが出版した本の内容や、彼自身が調査もした多くの書類によれば、全く異なった話となっている。アレッポのラビ達はファハムにコデックスを大統領や研究所に渡すのではなく、アレッポ出身のチーフ・ラビに渡すように言ったという。ラビ達が思いもつかなかったのは、モサッドや、離国ユダヤ人や、帰国ユダヤ人移民庁(イスラエルに移民してくるユダヤ人を管理する)がファハムと連絡を取り、イスラエルに帰国した場合は、特別優遇措置を取ると約束していたことだった。

帰国ユダヤ人移民庁の職員は、トルコでファハムに会い、その行動を逐一エルサレムの職員に報告していた。ファハムはハイファに着いた時、コデックスをアレッポ出身者団体に渡す代わりに、移民局の職員に渡し、それが大統領ベン・ズヴィに届けられたのだった。

「公式見解では、私が聞いたのは、アレッポ・コデックスは、自主的にイスラエル国家に渡された、ということです。」とフリードマンは語った。「ところがそうでは無かった。取り上げられてしまったのです。政府の役人は全ユダヤ人を代表し、従って写本の正しい所有者である、そして多分、自分達のほうが安全に管理出来る、と。だが、そうした理屈は事実を変えはしません。政府は極めて巧妙なやり方で、コデックスをアレッポのユダヤ人から取り上げ、詳細の辻褄を合わせる為に、欺瞞に満ちたやり方で隠蔽してしまったということです。」

1958年の2月、アレッポ出身のユダヤ人代表は、律法裁判所に訴えを出し、ベン・ズヴィ研究所にコデックス返還を求めた。この裁判の中、二人のアレッポのラビが証人に立ち怒りに満ちて、ファハムに渡した時イスラエルにいるアレッポ出身のチーフ・ラビに手渡すこと、他の人には絶対渡さないことを指示したと述べた。ファハムは、渡された後どうするかは全て自分の判断でと理解したと申し立てた。ベン・ズヴィ側の弁護士は、裁判記録は開示しないことを申し立て、そのまま50年経った。

50年後の開示

現在イスラエルのアレッポ出身のユダヤ人組織の長であるエズラ・カッシンはコデックスの話を調査し、何年も、紛失した頁の行方を追ってきた。彼は最近、この秘められた裁判記録を得ることが出来た。原告側の弁護士によれば、ファハムの証言は矛盾が多すぎる、とのことである。 3月27日付けの記録では、ベン・ズヴィ大統領に進言する委員会は、ファハムの反対尋問の後、「緊張感は極限に達したが、ファハム氏は、自説を撤回しなかった。」と記されている。
裁判の途中、アレッポのユダヤ人代表は、ファハムがイスラエル政府とベン・ズヴィ研究所からコデックスと引換に、特別優遇措置を得たと非難したが、ファハムは否定した。今月、私は、ファハムの息子とテラヴィヴの近くのショッピング・モールで長い話をした。彼は、まず、シナゴーグが破壊された時、コデックスを救ったのは、掃除夫ではなく、父だったと主張した。
(彼によれば、ファハムはコデックスを救うために、炎の中に飛び込んだのだった。)次に、ファハムはコデックスをシリアからこっそり持ちだしたが、それはコデックスが、ユダヤ人全体のものであり、どこか一つの集団だけのものではないからである、と言った。他のことは、嘘ばかりだ、と、息子は言った。「父はコデックスをイスラエルのアレッポ出身のラビには渡さなかった。何故かといえば、彼らは売り飛ばしてしまうだろうから。」と彼は言った。「父はだれからも特別優遇など受けてはいません。」

裁判は、コデックスの所有権ばかりでなく、もっと根源的な問題にも触れた。イスラエル国家が生まれた今、誰がユダヤ民俗を代表するのか?東欧的であり、世俗的なシオニズムなのか、或いは、文化遺産を受け継いでいきたいアラブの地に居たユダヤ人なのか?裁判は、秘密協定によって終了した。曰く、コデックスはベン・ズヴィ研究所で保管されること。但し、アレッポのユダヤ人がベン・ズヴィ研究所とファハムと共同で、写本を管理する。

イスラエルのアレッポ社会と対立し、財政的な問題もあって、ファハムはニューヨークに移ることになった。そこから、彼は、ベン・ズヴィに対し、自分が生命を賭してコデックスを護ったと認めるよう、大変な運動をした。ファラムが自分の努力に対して、自分の名前を追加するようにと迫った為、ベン・ズヴィは、1960年5月に返事を送った。「コデックスの集大成冊子が完成したら、それがあなたによってイスラエルに届けられた、という文章をいれます。」一年後、待ちきれなくなったファハムは、再度書いた。「疑いも無く、私のささやかな願いは、ご多忙の貴殿には叶えて頂くことも出来ないようですね。にも拘わらず、再度お願いしますが、この件は、忘却の埃に置き去られるべきものではありません。私にとっては、世界中の富以上に大事なことだからです。」

ファハムは、コデックスについて、イスラエル政府が必死に隠そうとしている秘密を識っていたようで、ベン・ズヴィの言葉にも大人しく懐柔されなかった。帰国ユダヤ移民局長のシュロモ・ザルマン・シュラガイは、ハイファで、ファハムからコデックスを受け取った職員の同僚であったが、ファハムを大人しくさせようとしたが、無駄であった。1964年、シュラガイは、その一年前ベン・ズヴィが亡くなった後、第3代大統領に就任したザルマン・シャザール宛に文書の写を送った。「コデックスを運んで来た男で、米国に行ったあの男を黙らせるのは、これ以上無理です。」そして、「ことが公になって、世界中のスキャンダルになるのではないかと心配ですが。」と。

世界中のスキャンダルになるような何をファハムは識っていたのだろう?考えられるのは、コデックスがイスラエルに到着した時は、殆ど無傷であった、ということではないだろうか? にも拘わらず、到着して直ぐに200頁が消えてしまった。そして恐らくその為に、コデックスが、現存する最も大切なユダヤ教写本でありながら、復元することも出来ず、展示も出来ず、ヘブライ大学のベン・ズヴィ研究所の事務所の鉄製のケースに入れっぱなしになっている、ということではないだろうか?

サフラ財閥と写本の呪い

放って置かれたコデックスの為に最も熱心に戦っているのは、アムノン・シャモシュ、あの「正直男」で、1943年に機会がありながら、写本を盗み出すことの出来なかったイツザックの弟である。アムノンはイスラエルの著名な作家で、小説「ミケル・エズラ・サフラと息子達」という題名の小説がTVドラマになり、1980年代に、当時一局しかなかった国営テレビ局を通し、イスラエル全土で放映され、全国民を釘付けにし大評判になった。これは、すべてを失いながら、建国後のイスラエルに逃げざるを得なくなった、アレッポの銀行家の家族の大河ドラマである。最初の頃に、家父長が火事の中、アレッポ・コデックスを救い出し、フランスのニースに持っていく、という筋になっている。

シャモシュの本とテレビのシリーズには誇り高いアラブ系のユダヤ人が出てくるのだが、アシュケナージ(欧州のユダヤ人)に対し、同様の豊かな文化と伝統を持っている。「突然、アラブの地のユダヤ人は、決して未開人でも劣っているのでもない、と気がついたのです。」とシャモシュは語った。「ここにも、教育を受け、賢く、豊かなユダヤ人がいたのです。」

現在は、シャモシュは、レバノンとシリアの国境近くマーヤン・バルークのキブツに住んでいる。殆ど目が見えず、ぶ厚いメガネのレンズと特別製の電子拡大鏡で、居間の壁を占領している本棚の本が少しずつ読める。「小説が世にでてすぐに、」と彼は言った。「エドモン・サフラという人から電話がありましてね、ジュネーブの彼の事務所に来てもらいたいと頼んできたのですよ。」サフラは、金融関連業界の大富豪で、家族はアレッポ出身だった。彼は、感覚や経験を超えた形而上の力を信じていた。そしてシャモシュの小説のことを知り、自分の家族の名前がコデックスの移動に関連して使われていることを知ると、恐怖に襲われた。ジュネーヴで、彼は、小切手帳を開いて、シャモシュを迎えた。「さぁ、君」とサフラは言った。「この小切手を君に差しあげる。好きな額を入れ給え。出版された本は、全て買い取る。あとは、名前を替えてくれれば、どれだけ印刷しようと構わない。」


訳注:金融業のエドモン・サフラ(左)の血筋は、オスマン帝国の時代まで遡るという。
右は、アムノン・シャモシュのTVドラマになった小説、「ミケル・エズラ・サフラと息子達」の広告写真。 
 


シャモシュは言った。「私は、あれは全部虚構で小説ですよ、と言いました。でもダメなんです。サフラは、言いました。私は『邪悪な眼』を起こしたくないんだ。でないと、私は、ひどい死に方を迎えることになる。」って。

ベン・ズヴィ研究所は、シャモシュに連絡してきた。小説の成功で、コデックスに関する学術研究書を書いてもらいたい、と。彼は自分の研究結果を書いて提出した。中には、ムラ−・ファハムの行為と研究所自体についてコデックスの取り扱い上の怠慢について、鋭い批判が含まれていた。シャモシュは、研究所が調査報告を読んだ時のやり取りを思い出して微笑んだ。
「研究所は、自分達の行為が批判された章は、まるまる削除して欲しいと言ってきました。」

彼は、研究所に、ファハム批判の部分は削除していいが、コデックスを無視した研究所の責任については、自分の眼で、コデックス復元が確認出来るまで、削除はしませんと言った。その後、ニューヨークのアレッポ出身者会が復元費用を寄付してくれ、その現金が、イスラエル博物館の復元研究ラボに現金輸送車で届いた。

復元の仕事は6年掛かったが、その間に、博物館の写本保存ラボの長、マッゲンが、重要な発見をした。それまでは、公式発表では、紛失した頁は、アレッポ集会所の火事で焼失したとされ、その理論上の証拠として、助かった頁の端には、紫色の焦げ跡がある、とされていた。ところが、マッゲンは、紫色の印は、火事が原因では全く無く、むしろカビが変色させたものだと判ったと言った。もし、これらの頁が火事の影響を受けていないとなると、ほかの頁は、どうやって焼滅したのだろう?

それまでには、アレッポ出身の社会では、密かにある疑惑が囁かれていた。それは、独りか、数人かのメンバーが、集会所の火事の後、頁のいくつかを持ちだしたのではないか、或いは、10年位の間密かにお土産として隠し持っていたのを、こっそりシリアから持ち出したのではないか、というものだった。これらはコデックスの持つと信じられていた魔力を考えれば充分有り得る話である。

イスラエル情報局の重鎮、ラフィ・サットンはアレッポ生まれで、子供時代をそこで過ごしている。今は80歳となって、エルサレムの郊外の町に住んでいる。私が彼を訪ねたのは今年の5月で、彼は1945年のバー・ミツバ(訳注:ユダヤの男子13歳の成人式)を思い出した。
「我々子供は15人いた。金庫から数メートル離れて一列に並ばされて立っていた。その金庫は、二つの鍵で開けられた。」と彼は言う。「僕らは、緊張して震えが止まらなかった。何故かといえば、赤ん坊の時から、その写本を敬々しく扱わない者は疫病で死ぬって言われていたからね。」

アレッポのシナゴーグが襲われた数日後、サットンと友達レオン・タウィルは、燻っている瓦礫を調べていた。タウィルは、写本の一頁を見つけ、ポケットに入れた。後日、家で、父が、その写本はコデックスの一部だろうと言った。タウィルは、1950年にシリアからレバノンに逃げた時、それを持って行き、そこから、船で海を渡ってアメリカに行った。米国では、ブルックリンのアレッポ集会に属した。彼は、その頁を伯母に贈り、伯母が亡くなった時、娘のルネが相続し、更に、それはルネから姪に渡り、その息子アレィエ・ロマノフ(現在エルサレム地裁の判事)が受け継いだ。ロマノフは昔アメリカの伯母、ルネが彼らを訪れた時、「この頁を持ってきて、何かの聖典の一部だと言っていた、という話でした。」そして、「僕の母は、それが何か判らず、国立図書館の専門家を呼んだのです。その人は、包を開くと、幸せに我を忘れたみたいだった。これは、アレッポ・コデックスですよ。あのアレッポ・コデックスですよ、って、踊りださんばかりだった。」

1988年、メナヘム・ベン・サッソンは、ベン・ズヴィの副館長で、もう一つの頁の一部を見つけた。それは、ブルックリンに住んでいるシュミュエル・セッバグ老人が用心深く隠し持っていた。それは出エジプト記の一部で、ナイル川が血に染まった後、アーロンが杖を繰り出して、蛙の疫をエジプトに齎す、という部分だ。「私は、老人に電話して、自己紹介をした。」と、ベン・サッソンは今月の初めテルアビブで、私に語った。「彼は、ハローとも、何の用か、とも言わなかった。ただ、ハッキリと、『この件は忘れるんだね。君に差し上げる気は毛頭無い。』と言った。」セッバグ氏は、どこで手に入れたかも言わなかった。ただ、ラミネートして、いつもポケットに入れて歩いていた。老人の死後、額は言えないが莫大な金で、セッバグ家の人は、それをベン・ズヴィ研究所に譲ることに同意した。これは先月初めて「書物の殿堂」で展示された。

これらが紛失したコデックスのパーツで、今までに見つかった分である。だが現在も探索は続いている。1990年代の中頃、モサッドは、米国のCIAや国務省の協力を得て、シリアに残ったユダヤ人を移転させる大掛かりな作業を行った。最後まで残ったユダヤ人には、壊滅したアレッポのユダヤ人も居て、その多くはコデックスの呪縛を受けたのだと信じていた。作業の一環としてモサッドはトラーの巻物はじめ聖典や写本の何冊かを何とかイスラエルに戻せたが、紛失したコデックスの頁は、どこを探しても袋小路に突き当たったのだった。

アンモン・シャモシュが私に語ったところによれば、さる匿名の人からコデックスのどんな部分でも買い取る金を出そうという約束を得たという。この約束を手に、シャモシュは当時ニューヨーク市図書館長であったヴァータン・グレゴリアンに連絡した。グレゴリアンはユダヤ教関連のコレクター達が読む雑誌に、コデックスの頁を買い取りたし、という広告を載せた。シャモシュは、他の学者達と共に、パナマ、サンパウロ、ブエノスアイレス、ニューヨークなどで、アレッポ出身の裕福なユダヤ人社会のネットワークを作り、金曜の夜の集会で、人々に語りかける許可を得た。「此処にいる皆さんの中には、ユダヤ社会に取って大層貴重な価値があることを識らずに写本の一部をお持ちの方もおいでではないかと思います」と、話はじめる。「もしかしたら、皆さんの中で、アレッポご出身のお祖父さんから話を聴いてはいませんか。お力を貸して下さい。」この密使の一人は、ベン・サッソンで、イスラエルのチーフ・ラビから特別な教義条項を貰っていた。コデックスの呪縛についてであるが、今度のは、逆に働く。つまり、隠してコデックスを所有するものに呪いあれ、と。「聖なる写本はエルサレムに戻されなければならない。」と彼は訴えた。とはいえ、直ぐに彼はこの努力は無駄だと気づいた。
「集会に来た人が言ったのだが、チーフ・ラビが新しい教条を仰言っるのは判りますが、アレッポのユダヤ人のコデックス信仰は揺るぎなく強いのですよ、と。写本の僅か一部であっても、訪れる幸運は図りしれない、と。」

この記事の為にインタビューした何人かの人は、元アレッポの住人であった人や、蒐集家がコデックスの切れ端を隠し持っているのを見たことがあると言った。だが、現在まで、それを手がかりにした調査は、全て不成功に終わった。

1989年、イスラエル・テレビは、サットンを紛失写本頁を探す特別調査官に任命した。アレッポから移民してきたサットンは、機関諜報や、モサッド勤務を通じ傑出した人物である。また貴重資料を救出した実績も持っている。1967年6月6日の「6日戦争」のさなか、敵地でスパイ網の手配をする任務にあったが、ディノという骨董商人を探せという緊急指令を受けた。その男が、死海文書を持っていると。

サットンとその仲間は、男と息子を逮捕した。親子は激しく識らないと言い張ったが、問題の写本について牢の中で話し合っている会話が録音されていることを識ると、白状し認めた。
「ヤツらは、ゲームは終わりと気がついたのですね。話し始めました。」サットンは、5月の末、エルサレムの自宅を訪ねた私に語った。「男は我々を彼の家に案内して、床のタイルを数え初めました。縦に5枚、次に横に4枚、と。それから吸着器を持ってきて、下水を吸い取り、タイルを二枚剥がしました。下には藁が敷いてありました。彼に言いましたよ。『お前がやれよ。』仕掛けが飛び出すかもしれないじゃないですか。男は藁を取り除きました。藁の下には、靴箱ですよ。彼に言いました『持ち上げろ』。男は箱を持ち上げる。『蓋を開けろ。』中には藁が、そして、二本に丸められセロファン紙で包まれ、赤いリボンが掛けられたものがありました。」それが死海文書で一番長い「神殿写本」であった。

こうして見れば、サットンが世界中のコデックスの紛失部分探索のリーダーであって当然だし又、彼の調査結果は、まさに画期的であった。多くの宣誓証言は、コデックスは火事では焼けず殆ど無事で、イスラエルにも安全に着いた、というものである。すると、残る疑惑は、アレッポのユダヤ社会から、ムラド・ファハムがイスラエルに持ち込んで以降、それを持っていた者に移ってくる。死の直前、シュロモ・ザルマン・シュラガイ(ハイファ空港でファハムからコデックスを受け取った職員の同僚)は、サットンに、写本は、殆ど丸々無疵であった、と証言している。今月初め、シュラガイの息子は、エズラ・カッシンに、カッシンの調査に関連して、コデックスが自宅に持込まれた時、自分も家に居て、ハッキリ見たのだが、欠けていたのは、僅か数枚、3枚か4枚で、他は全部あった、と証言している。

メイア・ベナヤフは、コデックスが届いた時、ベン・ズヴィの個人秘書官で、同時にベン・ズヴィ研究所の初代所長でもあった。コデックスを受け取った時もメモを書いている。ベナヤフの学者としての素養と、コデックスの歴史的価値を考えれば、その状態とか、頁数とか詳細な記録があることを期待するであろう。ところが、Keter Aram Tzovaという写本のヘブライ語名称以外は、何の詳細な記録も無い。更に、コデックスが届けられた直後、ベン・ズヴィは、ベナヤフからの情報として、ヘブライ大百科辞典の編集者に頁数について、誤った情報を出してい
た。時間が経って判ったことだが、コデックスの半分近くが減っていたのである。
写本を手に入れ損なった男
我々は、シュロモ・ムサイェフというロンドン宝石業界の大立者で、ユダヤ民俗品の世界最大のコレクターを訪れた。彼は私の質問には答えず、ベン・ズヴィ研究所の行政官、エズラ・カッシン(在イスラエル、アレッポ出身ユダヤ人協会会長)と、著者マッティ・フリードマンには、応えて、1980年代中頃、二人の超正統派ユダヤ人がエルサレムのヒルトンのロビーに来た、と言った。その一人、ハイム・シュニバーグは良く知っている、と。シュニバーグは、古代ユダヤ文書のやり手のディーラーで、メイア・ベナヤフとも知己だった。彼は、この分野では、専門知識も広く、信頼出来るディーラーで、高価な品しか扱わなかった。シュニバーグと、パートナーがムサイェフ氏を訪れた時、シュニバーグは、ブリーフケースを下げていた。フリードマンの本に書かれているが、その時のやり取りは以下である。

「シュロモ、速く決めろ。お前の欲しい物がある。」シュニバーグは言った。
「物はなんだね。」ムサイェフは尋ねた。
「シッ、静かに。お前は、何も誰にも言わないよな。」シュニバーグは言った。三人はホテルの部屋に入り、シュニバーグはブリーフケースを開けた。

訳注:ショロム・ムサイェフ(左)の祖父は、旧ロシア(ボカラ)出身で同じ名前。孫のシュロムは、ロンドンで成功した宝石・骨董商。顧客であり、PRに一役買った女優はエリザベス・テーラー。
宝石以外にも、古代写本も蒐集。
娘ドリット(右)は2003年にアイスランド大統領と結婚をし、アイスランドのファースト・レディとなった

1993年イスラエル国家TVのインタビューで、ムサイェフは回顧した。「彼らはブリーフケースをベッドの上に置き、開いて、カバーにかぶせたシルキーな紙を取りました。突然、私の眼が飛び出したみたいな気がしました。私が見たのは70―100枚の写本頁がビッシリ重なったものでした。黒いインクは時間を経て少し赤っぽく変色していました。大きな文字で、トラーの巻物の倍位の大きさの文字で、母音も入っていたし。筆跡の書体は、踊っているように思えた。。間違いなく、私が見たのは、アレッポ・コデックスの一部だったのです。」

二人は値段で言い争った。ムサイェフは、最後に写本の一部を買おうと申し出たが、シュニーバーグは、全部でなければ売らないと言った。後で思えば、自分は大きな間違いをした、とムサイェフは語った。1993年のイスラエル新聞では、記者に語っているが、「私は、欲を出し過ぎた。私は値下げ交渉で、多分少しは安くしてくれるだろうと踏んだのだった。彼らが提示した値段は、法外とまではいかないが、それを値切ろうと交渉した。それでコデックスを手に入れ損なったのですよ。もう一人のバイヤーが、私よりも$100,000余計に払って手に入れた。ロンドンの超正統派ユダヤ人ですよ。名前を教える気は毛頭ないですが。」

ベン・ズヴィ研究所の職員は、なんとかムサイェフから名前を聞き出そうとしたが、「彼は、何も言わなかった。」と現在の研究所所長は、私に言った。「私は、助けてほしいと頼んだのですよ。でも、彼は、黙ったままだった。非常に敵意があるようでした。」

シュニーバーグもコデックスを買ったのが誰か言わなかった。1989年8月16日、エルサレムのプラザ・ホテルで彼の死体が見つかった。鼻から血を流していた。部屋を借りたのは、ダン・コーエンという名だったが、姿を消し、チェックイン時の情報も虚偽だった。超正統派ユダヤ教徒だったシュニーバーグの家族は、宗教上の理由で検死解剖を拒み、死亡原因は断定できなかった。ユダヤ社会では、多くの人が彼はコデックスに関わったから殺されたのだと信じている。

調査を進めるにつれ、サットンは、盗難はコデックスがイスラエルに到着してから起きたという結論に達した。そして誰が犯人かも。彼は、国際囮捜査をやって盗られた頁を取り返したいと思ったが、それには莫大な費用が掛かり、TV局からの調査費用では不足だった。

1990年代初めに、サットンはエルサレムのキング・ダビデ・ホテルで、エドモン・サフラとあった。サットンは、もしサフラが紛失写本の囮捜査に協力してくれれば、ナマのTV放送で、サフラ家はコデックスとは関わりが無いと宣言し、サフラの不安を除いて差し上げようともちかけた。「これにサフラが乗ってね、」とサットンは言った。「私は、全国に向けて、コデックスは、サフラ家にはありません、と言った。アムノン・シャモシュが、スタジオに座っていたから、私は、『そうだろ、アムノン?』と聞いた。かれは頷いて、『その通り。あれは、皆フィクションだから。』と言ってくれた。その後、エドモンさんからは音沙汰無し。消えてしまった。だから、囮捜査も中止となった。」

エドモン・サフラは一生「邪悪な眼」に怯えていたが、1990年12月、モナコに持っていたアパートのペントハウスの火事で焼け死んだ。
(訳注:この記事には直接関連は無いが、この火事は、サフラ氏の従僕が、自分の働き振りを認めて貰おうと、一芝居打つ積りでわざと放火し、騒ぎを起こしたのが発端だが、消防車は、30分ほどで来る、と予測していたのが、実際には2, 3時間遅れ、想定外の猛火となり、サフラ氏は閉じ込められたペントハウスで、焼死したという。)

写本は無言の内に語る?

イツザック・ベン・ズヴィ第二代イスラエル大統領 


立候補し、選挙で選ばれたベン・ズヴィ大統領の威光というべきか、3,000ほどの写本が、その内の幾つかは、貴重な価値を持つものだが、アラブ地域からベン・ズヴィ研究所に寄進された。
アレッポ・コデックスと違うのは、これらの殆どは自発的に献本されたことだった。研究所が、それらを安全に護り、保存してくれるだろう、との信頼があったと言われている。だが、最近、判ったことは、1950−60年代の間、コデックスとは関わりなく、古文書や写本は組織的に略奪されたのである。

1970年に、メイア・ベナヤフは、研究所館長の職を離れた。その理由は不明である。ベナヤフは、1960年代のイスラエルのアラブ系ユダヤ人の教主であったイツザック・ニッシムの息子で、政治家で、閣僚でもあったモシェ・ニッシムの兄でもあった。2009年に亡くなったベナヤフは、聖典の蒐集家でもあり、アレッポ・コデックスの受け取りに関して、不審なメモを書いた本人でもあった。

モシェ・ニッシムは、兄ベナヤフの離職は本人の決断だったと私に語った。研究所の主導権と所在地に関わる内輪の争いが理由だと。その頃、ある情報源によれば、写本を秘匿したのが彼ではないかという疑惑が高まったという。事実、サットンの囮捜査のターゲットは、ベナヤフだったのである。「我々は、彼をバグダッドの盗賊と呼んでいたんだよ。」と情報源は言った。

ベナヤフは追加でどんどん入ってくる書籍や写本を順序立てて整理・分類しようとはしなかった。だから、実際、バラバラのメモ・ノートとか、寄贈した側から文書を見たいという要請が無ければ、何が紛失したのかも不明である。そうした要請は最近も、ニューヨークのシルヴェラ家から、イスラエル監査庁宛に厳しい苦情の形で届いた。1961年、ニューヨークに住む銀行家で財務家のデヴィッド・シルヴェラ氏は、コルフ島で発見されたヘブライ聖書の稀覯本を寄付した。ベン・ズヴィ自身が1961年5月15日付けで領収書を発行した。メイア・べナヤフも同日署名した。そして、その本は消えた。

研究所はべナヤフについては、立場が一貫していない。一方では、現館長のアシス氏はベナヤフ個人に関する書類記録を見せることを拒否している。彼は書類を金庫に収めたまま、数ヶ月に渡り、まだ、ベナヤフの個人記録には手付かずで、と言うばかりである。一方、彼はこうも言った。「我々は法で決められた範囲内で紛失した写本を取り戻す努力はしました。もし、我々が紛失した写本が何処にあるのか知っていたら、取り返す努力を惜しむと思いますか?」

私との感情的な電話で、モッシェ・ニッシム氏は、こう言った。「40年間、兄は最も正直で正しく、人生を文化研究に捧げ、個人蒐集書籍などを学問研究に惜しげもなく捧げてきた。40年間、誰も文句を言わなかった。誰もが賞賛し兄を褒め称えた。それがどうだ、今は急に何処かのヤクザなヤツが兄に汚名を着せている。」

それならアレッポ・コデックスの紛失部分は一体何処にあるのだろうか?サットンが言うには、今はもう非常にセンシティブな問題になってしまったから、仮に誰か持っている人が売りたいと思ったところで、身の危険を考えて売れない状態ではないだろうか?と。

メナヘム・ベン・サッソンは、現在ヘブライ大学の学長であるが、私にこう言った。「コデックスは貴重になりすぎて、誰でも持っている人が仮にいるとしても、世界中の富を集めたところで、今、晴天下に出す訳にはいかないでしょうね。あと、数世代時間が経てば、罪の意識も薄まり、元の収まるべき処、エルサレムのイスラエル博物館の書物の殿堂に、戻ってくるでしょう。」

ベン・ズヴィ研究所がアレッポのユダヤ社会からコデックスを横取りしたのではないか、という非難についてアシス所長はこう答えた。「他のどんな研究所や集会・社会と比べても、ベン・ズヴィ研究所ほどコデックス収納所としてふさわしい場所はありません。無論、ここの誰がアレッポのユダヤ人を代表するのかと聞かれれば、それは、この私、アレッポ出身で、ベン・ズヴィ研究所の所長です。私は、アレッポにも属する人間だし、研究所にも属します。結局の処、写本がイスラエルに来なかったら、今頃は何処かの博物館で、バッシャール・アサドの砲台に晒されているのでしょうから。」

編集:Joel Lovelli
翻訳:宮平順子

(訳注:マット・フリードマンの2012年7月26日付け、イスラエル・タイムスの関連記事によれば、ベン・ズヴィ研究所は1969年に組織的変更があり、ヤド・ベン・ズヴィ(イスラエル文化・教育研究所)の一部に組み込まれ、それ以前については責任を負わない、と研究所の宣言書には記してある、との記述があった。)

 

編集協力 株式会社 トムソンネット