火災保険と生命保険の「今昔物語」               

2014年11月6日

11月は「保険の月」である。生命保険も損害保険も、業界をあげて保険営業に熱をあげる。特に、一昔前の生保業界はすごかった。最近では企業訪問も家庭訪問も難しくなったため、様相が変わったようだが、生保レディによる熱心な攻勢に辟易した御仁も多かったと思う。

そもそも、この「保険の月」が始まったのは、戦後の混乱が続く1947年(昭和22年)のことである。当時の生命保険業界は、戦争中に国策として販売した「戦争死亡保険金」の支払いが急増する一方、激しいインフレの進行の中で事業運営費の高騰よって危機に瀕していた。

その窮状を救うべく、「保険の月」の構想を生保業界に持ち込んだのは、GHQ(連合国軍総司令部)の保険担当官であったという。当時の日本は米国を主力とする連合国の占領下にあり、マッカーサー総司令官(写真)が実質的に我が国を統治していた。

マッカーサー総司令官(「キリスト教読み物サイト」より)

当時、我が国生命保険会社が主力としていたのは「養老保険」という貯蓄型の商品である。満期になると満期保険金が下りる一方、掛け金はその分高い。明日のコメどころか、今日のコメを心配していた国民にとっては生保(貯蓄)どころの話ではなかった。

終戦直後のこの時期、金回りのよかったのは闇屋と現物の食糧を握っていた農家である。その農家は、11月になるとお米の販売代金などで多額の現金が手に入る。この時期に、農家を狙いとして生保の販売攻勢をかけるべきだというアイデアであった。

他ならぬGHQからのアイデアである。こうして「生命保険の月」が誕生したのである。
ただ、GHQはこのようなアイデア以外でも民間生保業界を後押ししている。

戦前から、郵便局による簡易生命保険(カンポ)だけに独占的に認められていた月掛け(月払い)の集金制を、1946年(昭和21年)から民間の生命保険にも出来るようにしたのである。官よりは民間活力を大事にする米国の真骨頂である。その米国は、TPP交渉の中で、未だに100%国家資本の巨大簡保生命に風穴をあけようとしている。

一方、損害保険業界が毎年11月を「火災保険の月」に定めるのは、生保業界から15年後の1962年(昭和37年)のことである(後に「損害保険の月」に改称)。

今回は、小難しい話はさて置いて、保険を巡る古今のエピソードを紹介したいと思う。

火災防災担当課の活躍

生保業界へのアドバイスに先立つ1946年、GHQの別の部署は、損保業界に対してあるアドバイスを行っていた。アドバイスをしたのは、GHQのエンジニアリング部門を率いるソーレル氏である。エンジニアが、損害保険会社にいったい何を提言したのか?

裏を明かすと、この方は、米国ノース・ウェスタン・ミューチュアルという火災保険会社の火災防災担当のエンジニアであった。兵役が終われば前の会社に戻るという。彼のアドバイスは、“火災防災”を保険業務の一環に取り入れるべきであるというものであった。

火災保険には英国流と米国流があり、英国流では火災発生の危険度に応じて保険料を決めるだけで十分で、火災事故が起これば保険金を支払う、という割り切ったものであった。

これに対して、米国流では事故の予防や軽減対策のアドバイスも損害保険会社が担うべき使命である、という考えである。このため、米国では、この役割を担う火災保険のエンジニアという職種が誕生しており、引受審査部門より高い地位を築いていたのである。

明治初頭における日本における火災保険会社の誕生以来、英国流を踏襲してきた各損保会社はGHQからのこのアドバイスを受けて、相次いで火災防災の専門組織を立ち上げるのである。今でいうリスクマネジメントの走りである。

実は、当時の損保業界は生保業界同様、経営危機に瀕していた。
まず、戦前とくらべ、保険の対象となる物件が激減していたのである。船舶は6分の1に、住宅の4分の1は戦災で焼失(233万戸)し、60万戸は家屋疎開で破壊されていた。

また、売上の主力は海上保険から火災保険に移行していたが、悪いことに戦後のこの時期は大火が続出していたのである。例えば、1947年には、飯田市(焼失家屋3,700戸、写真)、那珂湊町(同1,500戸)、三笠町(同488戸)で大火が起こっている。


1947年の飯田市大火(同市HPより)

戦災による消防力や警察力の低下、民心の荒廃、停電の頻発する劣悪な電力、木材不足から劣悪な建築素材が使用される等の原因が重なった結果である。さらに、焼け跡に急造された青空市場は、相次いで不審火に見舞われる。“焼け太り”を狙った放火の頻発である。

最大手の東京海上火災(現東京海上日動火災)は、アドバイスを受けた直後の1946年10月に「技術課」という火災防災部署を立ちあげている。社内公募に応じた全員文科系の11名の技術部隊の誕生である。彼らは、東大等から先生を招き、必死になって火災予防の技術を身につけていった。民家の天井裏をはい回って漏電のチェックをしたり、火災発生の大きな原因になっていた手製のパン焼き器のヒューズの取替えなどを行ったのである。10年後には、訪問調査件数は、工場物件などを含め年間で800件を超えたという。

我が国最初の火災保険会社

時代はさらに遡り、我が国損害保険の黎明期のいくつかのエピソードに触れてみたい。
我が国最初の損害保険会社は、1879年(明治12年)創業の東京海上である。東京海上が明治時代に扱っていた保険商品は、貨物(積荷)と船舶という海上保険だけであった。

これに対し、我が国最初の火災保険会社は、1887年(明治20年)創業の東京火災(後の安田火災、現損保ジャパン日本興亜)である。旧鳥取藩の士族(さむらい)が出資をして創立した会社である。この会社は、英国直輸入の火災保険ビジネスモデルで船出をする。

ところで、世界最初の火災保険とそれを扱う火災保険会社は、1666年に発生した“ロンドン大火”の翌1667年に誕生している。ドクター・ニコラス・バーボンとその仲間が起こした“Fire Office”である。当時の火災保険の仕組みは、今からみても、よく工夫が凝らされていた。

まず、担保する保険事故は火災だけではなかった。家屋の損壊や損傷なども対象としたオールリスク担保に近かったのである。さらに、火災保険に入った証明として“Fire Mark(ファイアーマーク、火災保険加入証)”を門扉や玄関など目立つところに取り付けていたのである。

ファイアーマークとは、革や金属など燃えにくい材質で作られた火災保険会社ごとの紋章である。長さは40〜50センチほどである。公設消防が無かった当時、各火災保険会社は、火事が起こると、私設消防隊を繰り出して、このマークを目印に消火作業に当たったのである。

東京火災社は、担保する保険事故は純粋の火災だけに限定していたが、その他の仕組みはロンドンのものを、そのまま取り入れたのである。同社がファイアーマークに使った紋章は、破壊消防の道具である“鳶口(とびぐち)”(下図の左)である。鳶(トビ)の口に似ていることからこの名前となっている。このファイアーマークは、今でも金閣寺総門に貼られている(下図の右)。

      
“とびぐち”のマーク      金閣寺総門の“ファイアーマーク”(共に、net IRより)

東京火災の私設消防隊は、1911年(明治44年)に発生した有名な“吉原大火”でも活躍をしている。その様子は、錦絵の中に“とびぐち”のマークと共に描かれている。

残念ながら東京火災自身は、創業間もなく生ぬるい“武士の商法”と相次ぐ大火による保険金の支払急増の結果、経営破たんの危機に直面する。この危機を救ったのが「日本の銀行王」と称される安田善次郎であった。

彼は、「共済500社」(後の安田生命、現明治安田生命)の設立によって生保事業にも乗り出していた。一方、明治26年(1893年)には「帝国海上」(後の安田火災、現損保ジャパン日本興亜)を設立して、東京海上の独占市場に風穴を開けたのである。東京海上は、相次ぐライバルの参入とロンドン支店の業績悪化のため、一時経営危機に瀕する。

超巨大台風と火災保険

今昔物語」と言いながらつい昔話ばかりの展開になっていた。そろそろ話を現在に戻そう。

次の写真をご覧になって頂きたい。昨年11月8日にフィリピン中部を襲った台風30号による被害の様子である。この台風による死者・行方不明者は7881人に及んでいる。

フィリピン中部を襲った台風30号(“ホモファーベル庵日誌”より)

この台風は、正に“メガ・ディザスター(超巨大災害)”であった。フィリピンに上陸した時点の最低気圧は895hPa、最大瞬間風速90m/sと発表されている。これは、上陸した台風としては観測史上例をみないほど猛烈なものである。

一方、米軍合同台風警報センターでは、最大瞬間風速102.7mを観測している。
日本を襲った史上最強・最悪の台風は、1959年(昭和34年)の「伊勢湾台風」である。死者・行方不明者は5千人を越えた。この台風の最大瞬間風速は55.1mに過ぎない。

2005年に発生した「ハリケーン・カトリーナ」は、カテゴリー「5」の超巨大ハリケーンであったが、ニューオーリンズ市を水没させたほか、メキシコやバハマなどメキシコ湾岸に大変な被害をもたらした。このハリケーンによる損保会社の保険金支払総額は763億ドル、約8兆円にもおよび、損保史上最悪の事故となっているのである。
火災保険は、今や自然災害保険と呼んだ方が良いほど、あらゆる災害を担保する。台風やゲリラ的に発生する集中豪雨による水害、竜巻などによる風災、雹(ひょう)災や雪害、地震火災発生時の費用保険などである。
近い将来、ハリケーン・カトリーナやフィリピンを襲った台風30号クラスのメガ台風は、間違いなく、我が国を直撃する。地球温暖化の進行は損保経営最大の経営リスクである。

結論

損害保険と生命保険は、それぞれ、全く別個の発達を遂げてきたように思われていた。
損害保険が誕生するのは、14世紀のイタリアにおける「海上保険(船舶や積荷保険)である。
これに対し、生命保険が誕生するのは、18世紀のイギリス(エクイタブル社)である。

一方、イタリアの海上保険では、奴隷を積荷として輸送する商人が、奴隷の生命に対して保険をかけていたため、この仕組みに“生保の芽生え”がある、という学説がある。確かに、“人の生死に対して金銭的な保障を行う”、のが生保であるため、理屈を言えば、海上保険の中に生命保険の萌芽をみることができる。この説に従えば、損害保険と生命保険はルーツが一緒であったのだ。

「小難しい話はさて置いて」などと断っておいて、結局小難しい話になってしまった。

(参考文献・資料)
・「東京海上火災保険株式会社100年史」(日本経営研究所編)
・「安田火災百年史」((株)ライフ社編)
・「図説 損害保険ビジネス」((株)トムソンネット編 金融財政事情研究会刊)
・「図説 生命保険ビジネス」(同上、12月に出版予定)
・「奴隷保険と生命保険」(木村栄一・一橋大学教授論文)
・「簡易保険問題の史的展開(1)」(田村祐一郎・長崎大学教授論文)

 

編集協力 株式会社 トムソンネット