中近東は広い

ヨルダンとエジプトお気楽ツァーに参加した 

宮平順子    


ナイル川の夜明け
はじめに

日本、アメリカ国内、ヨーロッパは、基本的に独り旅、または、気の会った友人との2人旅で十分だ。ネットで、行く先への往復の飛行機と2、3箇所に拠点をおいてホテルを予約しさえすれば、あとは、現地でバス、メトロ、歩き、のいずれかで、その都市はカバー出来るし、現地で、一日旅行とか2日旅行のパックに申し込めば、英語でガイドがついて、小旅行も出来る。

とはいえ、中近東で同じことをするのはねぇ、というのが正直な話。中近東が新聞に載らない日は無いし、大いに興味はあるし、世界遺産の数も半端ではない。だが、ビン・ラデン(今は亡いが)、ザワヒリ、イランのアフマ二ネジャネート氏、アフガニスタンのカルザイ氏は、今イチ何を考えているのか(管さんとは違った意味で)判らないし、政情も、不安定だし、こうした国々は、やはり、独り旅は正直、怖い。

そこで思い切って昨年(2010年)9月に、エジプトの旅、希望によってその前にヨルダンも追加できるというのに申し込んだ。Vantageという中小グループの旅を得意とし、特に中高年層に人気のある旅行社で、出発は、今年2月22日の予定だった。ところが、今年に入って、テュニジアに始まった市民のデモ蜂起での政権転覆の動きは、その後、エジプト、ヨルダン、リビア、バーレイン、と、続き、特にエジプトの1月25日は革命の日として名を残すほどの大規模なうねりとなった。出発間際の2月16日になって、旅行社から取り止めの連絡が来た。そろそろ荷物を準備しようか、という時。  旅行社が取り止めない以上、出発する、と決めていた。

昨年9月に全額支払っているので、どうするのかと思っていたら、旅行社から電話があり、取り止めの埋め合わせは、今年でも来年でも、どちらでもいいですよ、とのこと。エジプトでは、大統領辞任の結果、臨時に軍が政権を取り、今年の9月に選挙をすることになっている。でも、選挙の結果、ムスリム原理
主義が政権を取った場合、イランのように、極端な強制法を作らないとも限らないし、また、夏場は、砂漠地帯は旅行には向かないかもしれない。いっそ、軍が睨みを利かせている今の内に観ておくこともあるだろうと、直近ではいつ出発ですか?とたずねると、3月29日から4月17日までの旅行になるという。  では、それで。

3月11日に、日本では東日本大震災に見舞われた。 幸い、姉妹、親戚、友人達は殆どが東京で全員無事。 ところが経つ直前になったら、今度はヨルダンが不穏とかいう情報が出てきた。それでも、旅行社からは何の連絡も無く、ネットで調べても、あなたの旅は、あと3日で始まります、と、載っている。そこで、また腹を括った。 生きていれば出来ることもある。途中何事かでダメになっても、その時は運だったと諦めよう、と。 予定通り、3月29日夜にNYを発った。

ヨルダンへ

アメリカのパック・ツァーは、何度か経験しているが、日本のツァーと一番違うのは、目的の空港までは(今回の場合、カイロまでは)、飛行機チケットの手配以外は旅行社は何もしない、ということだろう。
海外旅行する人は、パスポートやヴィザ、必要とあれば予防接種は、全部自分で手続きするようにと文書での連絡のみ。(無論希望すれば、代理で手続きはしてくれるが、別料金が凄く高い)。 出発当日、空港で添乗員が待っている訳でもない。チケットも、今はE-チケットだから、Eメールに添付されたのを自分でプリントして飛行場に持って行き、それをカウンターで見せれば、搭乗券をくれる。だから、誰も何も言ってくれないし、何もやってくれない。同じ飛行場から同じツァーに行く人がいるのかどうかも全くわからない。目的の空港に着いて、初めて、旅行社の人がどこからとも無く現れて、ようこそ、みたいなことを言われて旅が始まる。
この仕組みが最初はわからず不安に思ったものだ。が、広いアメリカ、どこの州の人がどの経路でカイロに来るのかは、本人と旅行社のみが判ればいいこと、と、割り切っているのだろう。また、アメリカのツァーに参加する人が全員アメリカ国籍を持っている訳でもない。私がいい例だ。 アメリカ人に必要なヴィザで、日本人であれば必要ない国は多い。今回も、ヨルダンでは、日本人は入国費が免除だった。(旅券を発行する国によって料金が違う。)

さて、カイロに着いたのは翌日午前11時。ヨルダンの首都アンマン行きの飛行機は、午後5時出発。カイロ空港に、Vantageのカイロ社員が現れた。よかった、と思ったら、なんと、カイロからアンマンに行くのは、私1人だと。4、5時間あるから、お茶でも飲みますか?と言われたが、丁度本を持ってきたので、国際線の乗り換え待合室で1人で時間を潰すことにした。

私1人で、ガイドと車付でヨルダンを周るのかしら?これは豪華版だなぁ、と、内心喜んだのだが、夕闇の頃、アンマンに着いたら、私を待っていたのは、イスラエルから、ヨルダンに来た別のグループだった。私を入れて総勢6人。6人を乗せたのは50人乗りの大型バス。旅行社が気の毒になる。ガイドさんは、この道ン十年のプロ。クリントン前大統領、ダライ・ラマ、リチャード・ギア(俳優)、ユダヤ人道主義者でノーベル賞のエリ・ウィーゼルなどの国賓待遇者に付き添ったという経歴を持つダウドさん。 私たち旅行者よりよっぽど有名人なのが、この添乗氏。
彼と共に旅は始まった。

中近東の優等生ヨルダン

国民の90%(むろん国王を含めて)はイスラム教である。 イスラムが西欧と十字軍の前から度々戦火を交えてきたのも、宗教から観ると不思議ではないか。 ユダヤ教の旧約聖書があり、その後、キリスト教が生まれ新約聖書が経典になり、さらに600年後にマホメッド(ムハンマドとも言う)が、旧約の預言者として【神】の言葉をコーランとした、いわば同根異種(同じ穴の狢とも?)。 尤も、キリスト教でもカトリック(旧教)と新教派とは血を血で洗う争いをしてきたから、宗教は難しい。
この点をうまく観光に結びつけたのがヨルダン。 お隣のイスラエルとの間には死海があり、ヨルダン川が流れ込んでいるが、このヨルダン川のヨルダン領の一箇所が、イエスが、洗者ヨハネから洗礼を受けた場所なのだそうだ。新約聖書によれば、その時、天から、神の声がきこえ、これは私の愛する息子である、と言い、鳩の形をした聖霊が下った、として、三位一体の教義が生まれたことになっている。(カトリックではこの三位一体が中枢教義である)

そこで、この場所にローマ法王を招き、教会を通して各国からの寄付を集め、教会を建てた。ここは、キリスト教の信者にとって、エルサレムと同様、ぜひとも来たい場所に違いない。洗礼の場所は、ヨルダン川の脇の淀みだったのか、淀みになってしまったのか、本来ヨルダン川は、澄んだ清流で、そのまま水が飲めるのに、この場所は、なんだか溝川みたいで、映画でみるインダス川みたいに見えた。ともかく有難い川ではあるので、この日も、この泥川に浸かっている人々がいたが、せっかくの場所なら、もっと清流にしてもいいのではないかと、ヨハネとイエスが気の毒になった。きれいになることもあるのだろうか?

      
昔は水もきれいだった(使用前)       折角の洗礼も。。。(使用後)

死海で浮かぶ

死海のほうは、噂に違わず、塩分が通常の海水の10倍濃く、波が舌に苦いほど辛かった。
海に浮かんで日永一日は、風がなければいいかもしれない。殺菌力は抜群だろうから、こちらのほうがヨルダン川よりも効きそうだ。 ダウドさんは、「死海で海に浮かぶコツ」を教えてくれたが、くれぐれも、海水が眼に入っても、パニくらないこと、「痛くても我慢していれば、その内痛みが引くので、そしたら、眼を開けて下さいね。」この教えのお陰で、私もパニくらずに耐えることで乗り切った。
「死海で浮かんだ証明書」をもらってめでたく合格。(自分で書き込むのがミソ)

        
        死海の夕日           波が静かならこれもありだが、荒いとバランスが??

この死海の近くに死海博物館があるのだが、聞いたらDead Sea Scrolls(死海の書)は、イスラエル博物館にあるのだそうで。こっちの博物館は、年々干上がっていく死海(毎年水位が下がっていくので、益々塩辛くなる)のを防ぐよう、寄付集めもしているとか。死海の塩は多くのミネラルを含む万能薬みたいだ。(美容にもいい、と聞いて思わず買った。)

TV報道のギャップ

ヨルダンは中近東にありながら、隣のイスラエルともアメリカとも仲がよく、また、エジプト、サウジ・アラビアとも親しく、中近東の優等生といいたいい国だと思った。王室があり、最高権力は集中しているが、十分英邁な国王・王妃で、教育・文化、民主主義にもオープンである。テュニジア、エジプトについで、ヨルダンでも民衆蜂起か、と言われた時も、国王は、実に素早く首相を変えて事態を収拾した。

ホテルでTVをつけたら、理解できるのは、BBC, CNN, それとNHK国際版(英語)。 観ていて.、ふと気がついたのだが、私達が見るTVの情報は、BBCとかCNNなどで、世界中に報道者を送って、いわば「現地の状況」を実況する手法である。画面は、その記者がいるまさしく【現地】で周囲の人にマイクを突きつける訳だ。だから画面に出てくる人の質と、報道の質が相応しいのかどうかは観ている側には判らない。BBCやCNNが優れているのは、そうした無数の場面を捉えながら、その国の状況分析が優れている記者(とデスク)が、点と点無数に繋げていき総体的にバランスの取れた報道にしていくことだろう。だが、どの放送も点のみではバランスの取れた報道だとは言えないし、期待すべきでもない、と思ったのだ。
例えば、外国の記者が、以前の新宿の歌舞伎町とかで、殺しが連日あって、それを見た人にマイクを突きつけるようなもので、日本人なら歌舞伎町がヤバいところだと知っているが、外国の人は知らない。でも、そうした画面ばかりを繰り返し送れば、日本は何て物騒な国だろう、という印象操作も出来るのではないか、という意味で。アメリカで見ていた報道・記事も、ヨルダンで暴動が、というテロップ並みだった、というのも思い出されたのだった。

ぺトラの遺跡

ヨルダンの名所のナンバーワンは、ぺトラ遺跡だ。西欧に紹介されたのは200年ほど前、スイスの探検家ル-ドリッヒ・ブルクハルトさんによってだが、2千年前の通商ルート(エジプトのカイロからシリアのダマスカスに繋がりそこから後の絹街道のサマルカンドまで続いていったのだそうで)にある遺跡である。

荒涼とした岩山(ぺトラは岩とか絶壁の意味)の間の細いくねくねした道を延々歩き続け、疲れはじめたと思う頃、いきなり前方の岩の隙間から、ピンク色が見えた時は、オオーっと思った。 長い間岩山を登る人もなく、放っておかれた古代都市が忽然と現れたのを発見したこの探検家の驚きと感激がわかる気がする。発つ前に、NYのブックオフで飛行機の中での読み物をと思ってみていたら、目に入ったのが吉村作治さんの【世界の遺跡探検隊】という入門書。(15年以上前に書かれた本だが、遺跡の古さからいえば、十分参考になる。)ここにはぺトラもギザもルクソールも入っている。この本のお陰で、一夜漬けの断片を。それでも最初に岩間から忽然と現れた岩窟を掘り込んだ【ファラオの宝物庫】を見た時は、感動した。(吉村先生とブックオフに感謝!)

 いきなり 

現在は、この場所(というか洞窟)に居住を定めているのはベドウィンだという。ベドウィンと言うと、アラビアのローレンスのアンソニー・クウィンが思い浮かぶが、今でもベドウィンは定住地を定めず、この民族を国家としてどう扱うかは、時々問題になるそうだ。とはいえ、ヨルダンの方に言わせると、ベドウィンは最初から居た人達だから問題ないので、むしろ問題はパレスティナ人がヨルダン国籍を取って、流通・文化の分野で幅を利かせているのが困る、と。旅行業界は、パレスティナ人が占めているよ、と、ぺトラでバザールの店を張っている人が言っていた。
なんだかアメリカのユダヤ人とか、土着のインディアンの話みたいだなぁと思った。
私には本当のところは判らない。単一民族の日本人には、中々判りにくい話だ。

当時のぺトラを偲ぶには、本当は、馬とか駱駝に乗って行くのが、一番いいのだそうだ。

  
これが理想のスタイル。。。        ベテランのダウドさん

ベドウィンの親子

このベドウィンの地には、ニュージーランド出身の女性がベドウィンと結婚して棲んでいる。彼女は、看護士の資格を持ち、20代から昔のヒッピーみたいなバック・パックで、世界をフラフラしていてヨルダンに辿り着いた。そして、ぺトラを案内していたべドウィンの青年と恋に落ちて結婚し、洞穴を住居とし、今でもベドウィンの若い娘に教育を与えたり助産婦などをしている。(多分50代後半?)

彼女は、次第にベドウィンの中でも有名になり、エリザベス女王、ヨルダン王妃ヌーアさんも、彼女を訪れたという。この数奇な人生を本にしたら、各国語に訳されて今も売られている。ダウドさんは仕事柄、人脈も広く、このマルガレータさんとも懇意で、丁度家(洞窟)にいた彼女を私たちに紹介した。ほっそりとした彼女は健康そうな美人で、なんでこんな綺麗な人が(あのアンソニー・クィンみたいな)ベドウィンと?と思ったら、本の表紙には彼女と夫(数年前に亡くなったのだそうだ)の写真がつかわれていたが、夫も、なんと、凄いイケメン。やっぱりねぇ、と嘆息。私も、英語版を買い、表紙の裏にサインをしてもらった。まだ途中だが、実に面白い。(本の題名は、“Married to a Bedouinベドウィンと結婚して”。)こんな人生もあるのか。

この中で、彼女は、アメリカ人とドイツ人の観光客を比較し、アメリカ人は、ぺトラに数時間だけ居て、土産物屋と値引き交渉をするのが好きだが直ぐ騙される。ドイツ人は、何日も滞在して、全部調べているので、中々騙されない。だが、実際は、アメリカ人は騙された振りをして、貧しい地域の若者にお金を与えて頑張れよ、なのだと書いているのが印象に残った。良く見ている人だと思った。(尤も、それも少し前迄は、という注釈付かもしれないが。)

ぺトラの荒涼とした遺跡の洞窟でも、本の代金はVisaのクレジット・カードで出来た。ダウドさんの信用か?

アカバ港

アラビアのローレンスという映画を見た方なら、カイロからネフド沙漠を横断してベドウィンと連携を取り、海港のアカバの砲台は皆海を向き、背後は沙漠だからと手薄になっている虚をついて、攻略に成功した場面を覚えておいでだろう。そのアカバに行くというので、ワクワクして、あの砲台も観られるのか、と思ったら、とんでもない。今はアカバは、海洋科学研究センターができ、さんご礁育成の最中であった。

砂漠が多い他国に囲まれているヨルダンが唯一外洋に接しているのが、アカバ港とその前に広がる紅海である。ヨルダンの区域はほんの僅かで、イスラエルとエジプトが西側を、サウジ・アラビアが東側を占めているので、間のヨルダン国民には貴重な海辺リゾートとなっている。ここは、もしかしたら、観光客は迷惑かも?とはいえ、この港の遊覧船で、さんご礁の近くにきたら、泳いでいいですよ!

勇んで死海以来のフツーの海で泳ぎまくった。さんご礁が、まばらではあるが、確かにシッカリと岩を覆い始めていて、カラフルな熱帯魚みたいな小魚がヒラヒラとのんびり泳いでいる。ここなら、独りでもアンマンから車を借りてこれるなぁ。ぺトラの近くに宿をとれば、遺跡も歩き周れるし、と来年の計画を考えたりして。

   
紅海のアカバ海洋科学センター付近      新婚さんのカップル(奥さんはデンマーク人)

乗った船は、観光客用の遊覧船で、新婚旅行にきていたカップルが仲良く座っていた。通常は50人以上の観光客で一杯の船も、私達と同様のヨーロッパからのお客で、20数人位。タオルも十分あったし、船上でのシシカバブも美味しかった。

古代ローマ帝国のジャラーシュ

明日はエジプトに発つ、という4月3日、ダウドさんの曰く、政情が若干怪しく、エジプトだけのツァーの人達、参加者が激減したのもさることながら、JFKからの飛行機が飛ばなくなった?とかで、急遽一日遅れとなった。となると、ヨルダンにいる私達は、計画通りカイロに行っても、旅は始まらない。というので、ダウドさん(丁度、彼の母親が膝の手術で、彼は兄弟達と交代で病院通いだそうな)も、泣く泣く、私達にもう一日付き合うハメになった。

とはいえ、プロのダウドさん、すべて想定内。この際、ジャラーシュに行きましょう。ジャラーシュって?
アンマンの北70キロほどの場所にあり、ローマ帝政時代、ローマ式都市として建設された遺跡である。特に賢帝時代の都市建設帝王ハドリアヌス帝が指示したとなれば、半端じゃないはず。これは大当たり。ローマ大好きの私としては、思わぬ儲けもの。(この延長費用は旅行社持ちだし。)


雨はすぐ上がったがヨルダンも北は寒い

予想に違わず、ジャラーシュは遺跡自体完成度の高い都市をそっくりそのまま保存していた。ここで、私達は、小・中学校の生徒さん達に囲まれる。旅でであう人々の表情でその国が判るというのは本当かもしれない。どの子も可愛く、女の子達は、キャーキャーと、習った英語で、どこから?名前は?
  

写真撮ってと賑やか。丁度広場の楽団が音楽を始めたら、女の子達は輪になって踊りだし、ダウドさんは、私の背中を押して、踊りの輪の中に押し込んだ。いきなりお婆さんが飛び入りでも彼女達はキャッキャと嬉しがっていた。
(家に帰ったら、なんだか東洋のお婆ちゃんがダンスに入ってきてね、なんて話すのかも?)
旅の恥は掻き捨てとはよく言ったものだ。

昼ごろに、ローマン・シアターのショウがあった。
ローマのコロシアムに見立てた(つもり)の原っぱ円形劇場で、ローマ時代の衣装を着た兵隊達の戦い合い、剣闘士の戦い、2頭立ての戦車の競技など、一瞬ローマの過去に紛れ混んだか、と錯覚するような、戦闘場面を繰り広げた。尤も観客は、みな外国から来たお客さんで、剣闘士の時など、最後に、生かすか殺すか、親指で上にするか、下にするか、と、観客側をみたら、今の観客、殆どが「生かせ」で、誰も死ねないという幕も。役者さんも困ってしまい、一人は、無理に「殺して」(ケチャップをドバッと)見せ場を果たしたり。説明の人も、「昔みたいに殺せ、殺せだと、戦う人が減ってしまいますからねぇ。有難いです」なんてお茶を濁して。

  
ローマ軍団をまねて       ファランクスの一種か

悩める大国エジプト

カイロに着いたのは4月5日の夜。エジプトの案内役は、ラミーさん。若くて背が高く、ハンサム(韓流スター並)だ。
ヨルダンのダウドさんによれば、エジプト観光のプログラマーとして、非常に優秀な人だと太鼓判。
カイロについてから、私達一行はヨルダンの6人から15人に増えた。
ということは「エジプトの旅」への参加者は9人だったということになる。それでもバスは50人乗り。好きなところに座れるし、カメラを持って右左と飛びまわれるのは嬉しい。

観光客が激減。 エジプトは殆ど観光で食べているから、これは国家の大損失である。引いた客足を戻そうにも、世界中で、エジプトは危ない報道が行き渡った。テキサスからきていた夫妻は、出発の日に頼んだリムジンの運転手からも飛行場に着くまで、辞めときなさいと、言われ続けてきたという。逆に言えば、家族・友人がこぞって辞めとけというのを振り切ってきた、という、いわばDie Hardな人達が来た訳で、皆、筋金入りの旅行好きが集まったことになる。(私達の年齢から考えれば、もう失うものは無い、というのが本音だが。)
翌日、午前は、カイロの市内観光。モハメッド・アリ・モスクに行く。モハメッド・アリというから、あのボクサーのことかと思っていたら、トンでもない、ナポレオン後のカイロを復興させた、日本で言えば、明治の元勲みたいな人が150年ほど前に立てた立派なモスクである。(頓珍漢なことを言わないでよかった。でも、ボクサーと間違える人は多いのだそうで。)

   
モハメッド・アリ・モスク            エル・フセイン・モスク

いつからか、観光事業を維持するため、観光客を保護する目的で、旅行社が自腹で警備員をバスに乗せるということとなった模様。ラミーさんが私達と同様のラフな服装でいるところ、この警備員は、「総合警備保障」官、と言った感じで、背広・ネクタイで、(拳銃を隠し持っているのだそうだ。確かめられなかったが)殆ど喋らない。(英語がわからないからだと後で判った。つらい仕事だなぁ。)

   
モスクはやたら多いが。。。         カイロ市民の生活は。。。

ホテルからカイロの市内に行くバスの中から見ていたら、あら、立派なモスクが、と写真を撮ろうとしたら、あら、これもモスク、また、モスク、と、モスクばかりが目立つ町並み。モスクとモスクの間は、窓が破れ煤だらけの土壁の建物に、洗濯物が横紐に通されて風にはためき、旧式で凸凹の自動車と自転車が通りをクネリながら走りまわり、頭に大きな籠を載せた女性、男性がひしめきあい、と、映画でみた、日本の戦後の闇市みたいな光景。何じゃこれは。
観光のモハメッド・アリ・モスクはさすがに立派ではあったが、次に行ったフセイン・モスクの広場は、その人ごみの中で、私達だけ身なりが良く(服装が異なる)、太って血色のよいアメリカの中年女性が固まっているとみるや、四方八方から土産物を手にした人々(子供が多い)が買って、買っての大合唱。ノーといっても、ダラー、ダラー、(1ドル=6エジプト・ポンドだが、米ドルを欲しがる人が多い)で、怖くなるほど。
トンと肩を叩かれ振り返ったら、大八車か人力車の小さいのに、身障者で見たこともないほど四肢が曲がって襤褸の中に横たわっている男を載せた老女が、手を出して、お金をくれ、と。ラミーさんはこともなげに、お金をあげればいいのですよ、とそういいながら、自分も小銭を渡した(観光客の教師の役目もしている)。
これは大変なところだなぁ、というのが正直な印象。この広場の周囲は昔からのバザールになっていて、これまた買え買え、安いよ、の客引きコーラス。多分、ゆっくり時間をかけてさがせば、いい物は一杯あるだろうという並びで、実際歩いてみれば、中には品の良い家具・絵画・宝飾品などの店もあり、そんな店は、人も静かで、押し付けがましくもなく、この店にはもう一度来たいと思ったが、町並みが雑多だという印象で一日は終わった。

観光客の立ち位地

ギリシャもそうだが、エジプトも歴史の古さということでいえば、ギリシャより数等大人である。
第一、現在の世界で、5,000年以上昔に出来た初期王朝からのヒエラティックでの記録がちゃんと残され、紀元前2000年くらいなら当時の会計司とか、大臣の名前までわかって、嫁舅の確執まで記録に残しそれも壁に刻みつけて色を塗り、見る人が改竄できないようにする、(それが解読されたのは他国の人によってではあっても)などということをした国がどこにあるか?司馬遷だって、紀元前145年くらいの生まれだし。
王は神の子と思われていたので、生前はこの世で、王の権力をあまねく見せる為に神殿を建てて自分の先祖の神(ホルス神とか)を祭り、死んだらあの世で神になるので、その準備として、墓場というかあの世での住居と、そこでの生活が生前と同様のレベルであるように(あの世で引け目を感じないように?)として、その為に如何ほどの人々の労働と人生がつかわれたのか、に想いを馳せるとクラクラしてくる。
王にしてみれば、人間は、家族か敵か使用人(奇しくも田○女史が言ったと言われている区別法と同じ!)だったのだろうが、使用人にとっては、大変な人生だっただろう。 間違いなく王家には生まれなかったはずの私は、今の世の中に生まれてよかったとエジプトで改めて思ったのだ。
そうした歴史は、人々に生きる智慧をDNAのように代々遺伝していったのだろうか?それが、ダラー、ダラーと連呼する理由なのだろうか?

エジプト博物館とタハリル(自由)広場

1月25日は、タハリル広場で大デモで騒擾となり、当事の大統領ムバラク氏を辞任に追い込んだエジプト国民総決起集会の記念日だ。エジプト博物館は、タハリル広場の直ぐ近く。騒擾の時、一時博物館も略奪の危機にあったが、幸い損害は極めて少なく終わったという。エジプトにとっては、歴史総まとめの博物館は何より大事な国家遺産だからということだろう。中でもツタンカーメンの部屋には黄金の立像、ミイラの処理の小物(肝臓などは別小壺に入れて一定期間を置くとか)、その他貴重な遺品が盛りたくさんある。

それらを拝観して、外にでたら、タハリル広場でなにやら人が集まっている。タハリル広場自体は余り大きくないので、2月最初に新聞で見た群集の写真と中々イメージが掴めなかったが、それは、広場は、何本もの自動車道路の交差点の中央にあって、当日は、自動車の代わりに人々がその道すべてを埋めつくしたのだと気がついた。

驚いたのは、ラミーさん、それまでは、バスの中とか博物館とかで一応の説明などするものの、それほど熱心とは見えなかったのが、このタハリル広場を見た途端人が変わったように、突如雄弁になりデモのことを語り始め、その内、私達そっちのけで、広場の誰彼と話をはじめた。

    
ミラーさんの後ろは       カイロ博物館はほとんど無事     タハリル広場のデモ   
騒乱で焼けた建物                        エジプト国旗とリビア国旗

広場の向こう側の新聞社と思しきところでは、丁度リビアの人々のデモを支援する、という人達が集まっているとかで、急に、「皆で行ってみませんか?」と、私達の返事を聞くまでもなく、支援の人から、エジプト国旗の小旗(赤白黒)を一杯もらってきて、私達に持たせた。なんだか、アメリカからリビア支援に駆けつけた、みたいな格好で、エジプトの旗をもち、リビア支援組(緑赤黒がリビア旗)の近くに行くと、そこにいた人達は、「オーオー、よく来てくれたねぇ。」という風にニコニコして、はいんなよ、と。

私達のグループが皆カダフィ倒せばかりでもないだろうに、なんだか訳わからず他国のデモに参加した、というのが本当の話。でも、ラミーさんの豹変振りを見た時、私にはエジプト人々の持つ悩みと情熱とが、うっすらとではあるが伝わってきたような気がして、それ以後ラミーさんは、けっしてクールな金儲け添乗ではない、と、嬉しくなったのも本当。ダウドさんの言うとおりだ。自分の国を愛する情熱があって、初めて他国の人に国を理解して貰える、ということかも。

この日、現地の家庭を訪問して夕食をご馳走になる、というプランであった。私達は、2組に分かれて、一つの建物の4階と、7階のホスト・ファミリーを訪れた。この建物の持ち主は、軍のオフィサーを定年退職した方なのだと。7階は、その親戚だとか。私は、4階の家主の家に行った組だが、ここがカイロの一般庶民の家とは到底信じられないほど、豪華で裕福なロフトであった。(訪問した観光者より、数等お金持ちではなかったか。)ここで、頂いた夕食も美味しかったし。(食事は7階の奥さんと共同で作ったとか)

  
私たちのホスト夫妻と娘            ヨーロッパスタイルのリビング

ピラミッドといえばギザ

ギザのピラミッドは、外側だけなら幾らでも写真を撮れるが、一番大きなクフの内部に入れるのは、一日300人の限定入場。幸い、観光客の足がエジプトから遠のいた時だったので、私達は全員入れたが、ピークの時などは、早朝に行列が出来、入れない人が続出になる。
出入り口が一箇所で、右側通行の急勾配で天井が低い階段をひたすら上がっていくと竪穴につきあたり、梯子をよじ登ると、棺を納めた部屋にでる。懐中電灯で、あたりを照らして、薄ぼんやりの壁を眺め、今度は梯子を降りて、左側の急勾配の階段をひたすら降りてくる。私は小柄なので、余り感じなかったが、6尺豊かな方は、天井が低い為、頭を低くしながら、ということは、かなり前屈みになりながらだから、きっと疲れるだろう。帰りなどは、逆にそっくり返りながらだから。内部は撮影禁止。ガイドも入れない。(この先、ガイドもダメ、カメラもダメ、のところが何箇所も。これも国策だろうか?
外にでると、こんどは駱駝乗りがお勧めのコースで、これも、希望者は全員乗れた。駱駝に乗ったのは初めてで、怖々背中にのって、手すりにつかまったら、いきなり立ち上がった(駱駝は後ろ足から先に立つので、前こごみになったと思ったら、途端に、後ろにそっくり返って地上から2階に上がったくらいの気持ち)時には、思わずキャアと叫んでしまったが、ゆらゆら揺れている内に、アラビアのローレンスを思い出して、いい気になったところを写真に撮られた。

  

スフィンクスも寄る年波で、もとのレンガの部分を補強する修繕中。
鼻ばかりか、満身創痍になりながら、健気にピラミッドを護っている。
カイロ近辺の観光が終わると、飛行機でアスワンに行き、アブ・シンベルを拝観してから、あちこちの神殿を見ながらナイル川をクルーズで下り、王家の墓のあるルクソールに着いたら、今度は、そこから、カイロまで飛行機で戻る、というコースである。クルーズも、ナイルの上流区域と、中流区域では船も変わる。縄張りがそれぞれあるということだろうか?私達は、明日の出発の準備で、荷物を纏めた。

アスワンとアブ・シンベル

1960年頃、アスワン・ダムの起工式が行われた。日本の東京オリンピックの3,4年前である。エジプトの発展の為、ナイルの水流を利用してダムを作ろうと当時のナセル大統領が考えた。そうなるとアブ・シンベルの神殿が水底に沈んでしまうというので、文化遺産か電力・発展か、という論争が起きた。ならば、アブ・シンベルを高地に移転しようと、当時としては発想の大転換をして移転計画をたてた時、実際に世界中からお金をかき集めたのはユネスコを中心とした世界機構で、エジプト自体ではなかった(無論計画に賛成はして、大いにエジプトのPRはしたが)。
当時、私が購読していた学生雑誌に、アブ・シンベルを救えというアピールの広告が載り、寄付をつのって、当時の私も、真面目にお小遣いを送らなければ、と、考えたこともある。エジプトは、当時の欧米自由諸国と、鉄のカーテンのソ連圏とを両天秤にのせて、どちらでもお金をだすほうと仲良くしようとしたフシがある。今回アスワンに行ったら、近くに大きなハスの花を象った立派なモミュメントがあったが、これは、西欧が出し渋るお金を当時ソ連が出したので、そのお礼を兼ねて記念に作ったものだ、とか。
スエズ運河にしても、開発整備したのはフランスをはじめ複数カ国の合弁会社だがナセルさんが国有化して、通行料が国の収益の大きな部分を占めている(実際には今も国際コングロマリット企業)。

    
ソヴィエトとの友好記念             アブ・シンベルも静かだった

その後、ナセルさんの後のサダット氏、そしてサダットさんの暗殺後のムバラク氏と続いて50年後の今まで、エジプトは、国家の発展を基本にしながら、その原資は観光業で賄ってきたように思う。ラミーさんの曰く、エジプトは産業が無いのではなく、ある産業は、クォリティが高い上質な品である。たとえば、エジプト綿。例えばオリーブ油。そうかもしれない。であれば、もしかしたらエジプトは高品質を求める為に庶民の生活を後回しにしたということだろうか?
文化遺産が掛け替えの無いものであるのは確かだが、以前イタリアのベニスに行った時、同じ感じを抱いたのだが、文化遺産を観光客にみせて、それが収入の大きな部分を占めている土地の人は、どこか労働に積極的でなく、そのくせ傲慢だという印象を持ってしまうのだが。

エジプト神話をご紹介

エジプトの神話も、地方によって諸説あるようだが、以下は大まかな話である。
前後にもいくつもの話がつくが、取り敢えず。(この話を知ってから神殿を見るのと知らずに見るのとでは、残るものが違う、ということが判ったのは、私の場合、恥ずかしいのだが、あとの方だった。

創造主アトゥム神は空気の神シューと水(湿気)の女神テフネゥトを生む。そしてシューとテフヌゥトは天界の女ヌゥトと大地の神ゲブを生み、さらにシューとテフヌゥトはアトゥム神の歯と舌から世界創造の為に働く他の神々を生む(古事記といい勝負だ)。女神ヌゥトは大地の神ゲブとの間に、オシリス、イシス、セト、ネフティス、ハロリエスらを生み、やがてオシリスはイシスを、セトはネフティス(後で逃げられる)をそれぞれ娶る。

オシリスは地上の王ともなり人々に農耕や牧畜を教え、天界では善と正義を守る神であったが、弟のセトは悪の神であり混沌(雷)であった。セトはオシリスを妬み、密かに亡き者しようと策を練る。そしてある祭りの宴にオシリスを招き、大きな螺鈿細工の櫃を引き出物に出して、こう言った。「この櫃の中に入れた者がこの櫃の所有者だ。」実は、この櫃は、オシリスの体型に合わせて作ったものだった。櫃の細工の見事さに眼を奪われた兄オシリスが櫃に入った時、セトは仕掛けの錠を下ろした。そして仲間と共にオシリスの入った櫃を運びだし、ナイル川に投げ捨ててしまう。

主な、登場神
オシリス:王冠を載せて座っている
イシス:オシリスの横に立っている
ホルス:右端の隼神 
この3神に囲まれて立っているのが人間の王(神の子のため)


セトの策謀で夫オシリスが殺された事を知った妻の女神イシスは嘆き悲しみ、乳児のホルスを女神ブトに預けて、オシリスの遺体を捜して旅にでる。そして遠いビブロスの地(現在のレバノン?)でようやくエリカの木に覆われていた(ので外からは判らなかった)櫃を見つけた。オシリスの遺体を抱いて、嘆き悲しむイシスを見たビブロスの女王はイシスをもてなし(途中で女神だと判る)、無事エジプトへ帰れる様にと舟と食料を与える。イシスは舟にオシリスの遺体を乗せ、エジプトに帰り着く。そして腐乱した夫の遺体を拭きながら、オシリスが生き返る様、母神ヌゥトに祈った。(神と人とがごっちゃで紛らわしい)

ところが、イシスがオシリスのそばを離れたすきに執念深いセトがまたもオシリスの遺体を盗み、今度は
14の断片にバラバラに切断してナイル川に捨ててしまう。(ワニに食われてしまえ、と)

イシスはまたもや遺体を捜す旅にでる。イシスは見つけた断片を一つ一つ集め、今度はバラバラにならない様に亜麻布でしっかりと巻いて(これがミイラの由来)、神殿を建てた。但しオシリスの体の一部はどうしても見つからなかった。見つからなかった部分は魚に食べられたからだという。(ところで、その一部というのは男性のシンボルだとか。形が似てるからウナギが喰ったという説もある。だからエジプト人はウナギを食べない、とか)

イシスはセトの罪を神々に訴え息子のホルスこそ、現世の王にふさわしいと訴えた。セトとホルスの戦いは、ホルスの成人をまって争われ、結果、オシリス、イシス、ホルスがエジプトの守護神となり、それぞれ、カルナック(アムンを奉ったが、オシリスも)、フィラエ(イシス)、エドフ(ホラス)の神殿となっている。今回、この三つの神殿も、拝観したのだが、神話の意味が少し判ったのは大分後のことだった。(DVDを買ってきた。)

フィラエ神殿(ルクソールの近く)で、ラミーさんは、この神話を持ち出して、粗筋を解説した。そして、今度は、私達の中から5人を選んで、イシス、オリシス、セト、ホルス、ネフティス(イシスの妹)の役を与えて、この話を即興劇にするように、と。上手い具合に、選ばれたのは、皆、エジプト神話をよく知っていた人達(歴史の先生もいた)で、イシス役といい、オシリス役といい、実に見事な台詞を即興で朗々と演じたので、私は、感激した。ツアーで、即興劇が出来るというのも、旅の醍醐味だ。お陰でエジプト神話の印象はしっかり心に留まった。(日本でも古事記の話を劇になど、学芸会でするのだろうか?)
  
デヴィッドのホルスとロベルタのイシス  セトは、ホルストにオシリスの敵として撃たれる
ラミーさん、観光客を手玉に取って中々リーダーの資質がありますね

ルクソールで熱気球に乗る

オプショナルのツァーには、朝早くの熱気球乗りがあった。オプショナルだから、別料金で申し込む。最後の土壇場まで、どうしようか、迷っていた。ペンシルバニアのドティは、足を折ったり、腰を痛めたりするわよ、と、辞めとけと。テキサスのシャーリーンは、何度も乗ったけど、なんでもないわよ、と。どちらも本当だろう、と、誰がいくかそれとなく調べてみたら、飛行場では車椅子のおばさんで、大肥満体のルイーズが、行くというではないか。聞いた途端に決めた。あの人が行くなら、絶対大丈夫だろう、と。

朝4時起きして、ナイル・クルーズの船を降り、バスに乗って王家の谷の反対側、ナイルの東のルクソール気球場に行った。

観るものすべてが初めて。熱気球は、文字通り、風船みたいな袋をバーナーで熱して外の空気との差で浮上させる。ガス・バーナーが火を噴いて袋を膨らませるのは、見ていて壮観だ。ゴーっという音をさせながら、やがて気球が上に上がっていく頃、私達は、バスケット(小型の3,4人乗りを4個くっつけて、間に案内役をかねたキャプテンというか熱気を送り続ける運転者の籠がついている)、その一つに乗り込んだ。例のルイーズは、屈強の男性4人ほどが、お尻を押して、詰め込んだ。

  
浮上準備 − バスケットに乗る        王家の谷を見下ろして遊覧  

空に上がったバルーンは、風まかせで、ふんわり、ふんわり動く。
王家の谷、カルナック神殿、ナイル川の大きなうねり、飽きることのない、それは贅沢な夜明けの遊覧だった。 
他にも、5台か6台、同じ空を遊泳していた。朝日が眩しい。

一時間位して、風船は、段々高度を下げていった。すると、今度は下の農園風景が近づいてきて、なにやら、不思議な音がする。あれ、なんだろう、と聞いてみたら、ロバの鳴き声だ、と。初めて聞いた。空からみる農場は立派で、ナイルが肥沃な土地を潤わせている、というのがよくわかる。

王家の谷

熱気球を降りたあと、皆と合流してバスで王家の谷に。ここも、撮影禁止、ガイド無し。気球から見た王家の谷は延々と続く土山に点在する古の墓で、その内観光に値する(荒されていないで、内部が整理された)墓を公開しているが(現在11箇所)、いくつかの切符がある模様。私達のは、どれでも3箇所に(入場毎に切符に穴を開けて三つになったら終り)入れる。但しツタンカーメンは別料金。どうやって3箇所を決めるのか?ラミーさん曰く、「入場したところにある4箇所の内3箇所がお勧めです。」と。何だかなぁ、これって一番楽チンじゃないの、と嫌味を言ったら、ラミーさん、ケケっと笑った。

ツタンカーメンの墓ではミイラが3段重ねの最後に黄金マスクを被って寝かされていたのを、黄金マスクを取ってしまって(博物館に展示)、茶褐色の無機質な物体に変わって横たわっていた。世界中から自分の死体の名残を眺めに人々が来ていると知ったら、この若い王は何というだろう、と気の毒になった。色彩豊かな部屋は、決して死を意識させるものではなく、むしろ明るい楽しさのような雰囲気がよかったが、これも写真禁止、ガイド無しで、完全図録ガイドの「王家の谷」を読んで、なるほどねぇ。

ツタンカーメンの墓
黄金の仮面で想像するのとは裏腹に、外から見れば変哲のない入口。中にはミイラが眠っているが

王家の谷といっても実際に谷が一本という訳で無く、広大な地域に一杯王の墓が散らばっているので、これは、私達のような、お気楽旅行者の手に負えるものではない。後で調べても、私たちの入った、ラムセス9世、ラムセス4世、メルエンプタハはどれもよかった。多分、通常の観光客は、ここらあたりか、或いは王妃の墓を集中的に、ということになるのだろう。

考古学者が、一生を掛けて調べているところに土足で踏み込むようなものだろうと、威儀を正して、拝観を終えた。

ヌビアの村で、水タバコ

エジプトのファラオは、上エジプト(ナイルの上流アスワンなど)と下エジプト(カイロ近辺)の両方を統治していたが、現在もヌビア地方(上エジプト、スーダンの近く)は独特の文化を持っている。但し、現在も生活は極めて貧困で、ヌビアを訪れた日は、ラミーさんは、私達に、ペン・鉛筆の類を配った。何のため?訪れるのは、ヌビアの教会が管理している学校に行けない子供達の託児所訪問をするからだと。

ヌビアの村は平和ではあったが、どの家も、厚い泥壁でできた家だった。中でも立派?な大きな家に通されて、そこに暮らしている人から歓待された。よく出てくるナンに似たパンと、つけて食べるペーストのようなものとペプシを飲んでいると、主人が水タバコをセットした。まず、ラミーさんがお手本を。水タバコは装置だけでも大変で、炭は必要だし、タバコの葉も必要だし、これをアメリカでするのは、かなりお金が掛かりそうだ。代る代わるに水タバコを試してみる。私も試してみた。けど、なにしろタバコの吸い方が判らない。コツは最初息を一杯吸い込んで、全部吐き出し、それからタバコを吸う。やっとの思いで水を潜ったタバコの煙を吸ったら、口から若干煙が出てきた。さすが、男性は皆上手に吸っていた。中にはウットリと眼をつぶって中々離さない人も。

    
水タバコもなれればいいのだろうが    ペット?のワニ      子供たちは可愛かった       
家の内外を拝見させてもらい、台所に行ったら、昔の用水箱みたいなコンクリートの入れ物がある。何気なく中を覗いたら、小さなワニが飛び上がっていた。コワッ。裏庭に行ったら、黒ずくめの老女が3名。おいでおいでをするので近寄ったら、手を出した。あぁ、ここも、金をくれか。渡して、その後、教会の託児所に行って、ペン・鉛筆を差し上げた。子供達は可愛い。

ペンのみではなく、お金も集めていた。チャリティーも目的の一つらしい。ラミーさん、やっぱり、政治家志望か?エジプトには彼のような人が必要かも。観光客は、上っ面を見て、いいところに泊まり、美味しい食事をして楽しむが、こんな地方をきちんと見せるのは、プログラム・マネジャーの腕だろう。

旅の終わりに

アレキサンドリア、昔のカイロ、コプトの教会、ナセル庭園、その他、今回の旅で行ったところを書いていたら、いつまでも終わらないだろう。

  
地中海の花と言われたアレキサンドリアは    ナセル大統領を記念した庭園は植栽が見事だ。
ロードス島に似た雰囲気だった         ナイルの豊穣はこの庭園もうるおしている  


イシスを奉ったフィエラ島では、夜、エジプト神話を光と音楽で上映している
神殿の照明が幻想的で印象的だった


それにしても、中近東と一口に言っても、私が今回行ったのはヨルダンとエジプトだけ。まだまだ世界には行きたい場所、知りたいことが一杯ある。旅の醍醐味は、世界をほんの少しだけでも自分の目で見て、今まで気づかなかったことに気がついたり、報道されない面から、その国のことを改めて考えることだと、納得。
今回、ヨルダンのダウドさん、エジプトのラミーさん、共に旅の案内・ガイド・監督・場所の選択は、彼らの力量が大きかった。バラつきのある観光客を相手に2人とも、大層優秀で立派だったというのが総体的印象。

ただ、両国とも表向きは禁酒国で、観光客は例外だが、基本的にどこでもお酒は別料金だった。(イタリアではワインは大ジョッキが並ぶ。)ペンシルバニアのドティと私は、いつもワインを頼んだのだが、これが、酷いワインで。。
(例外はあるが)。お酒を楽しむ地域では無いと納得。(クルーズのデッキでのプールサイドで頼んだビールは冷えていないし。ったく。) ビール、ワインがダメならカクテルを頼もうと、マルガリータはある?と聞いたら、ピッザのことですか?って。ここにいれば自然とお酒は飲まなくなるだろう。

エジプトの旅が一日ずれて、帰りは4月18日になった。仕事のある5人は、17日に先に発ったが、私は、幸い最後までこの旅を十分満喫した。(了)

 作成協力 株式会社 トムソンネット